【平成13年1月】
国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために 第一回
《解き明かされる真珠湾攻撃の真相
−米国で刊行された衝撃の書》
新年明けましておめでとうございます。
前号でも申し上げましたが、昨年に続き『愛媛版』では一頁を設け、英霊顕彰問題
の解決の端緒として少しでもお役に立てればと思 い「国難に殉じた青年たちの歴史
を記憶するために」と題し、今では殆ど関心の払われていない、しかし日本人とし
て語り継ぐべき大切な大東亜戦争の真実や英霊の真情に焦点を当てその一端を紹介
したいと考えています。繰り返しますが、この問題の基本的視点は正しい歴史の継
承にあります。今年は大東亜戦争開戦六十年目ですが開戦当時二十才の方も今は八
十才と齢 を重ねています。戦後この 間、戦争を戦った方々の正しい歴史は継承さ
れるどころか、逆に隠蔽され虚偽や歪曲された歴史が伝えられています。家族や友
人を戦いで亡くし、その御霊を守りながら瓦礫の中から立ち上がり、戦後日本の繁
栄を築いた礎となった人達へ感謝を捧げる意味でも、真実や真情・体験を明らかに
して継承することは急務と言えましょう。
さて、大東亜戦争の真実を解明する上で一昨年に米国で刊行され日本でも話題と
なっている本があります。それは大東亜戦争の緒戦である真珠湾攻撃について、元
米海軍兵士として日本軍と戦った体験を持つ、米国のジャーナリストのロバート・
スティネット氏が著した『欺瞞の日(原書名・Day Of Deceit)−FDRとパールハー
バーの真実』(注・FDRトハ当時ノ米国ノ大統領、ルーズベルト大統領ノ略)です。本書は日本で
は京都 大学の中西輝政教授が月刊誌『正論』の昨年十月号で大きく取り上げたの
を機会に、先月発売の『諸君!』や『サピオ』紙上で特集記事として紹介されるな
ど、我が国の研究者でも大きな関心を呼んでいます。また開戦五十九年目の先月、
十二月八日の愛媛新聞にも「地軸」で紹介されています。私も早速に原書を取り寄
せ辞書を片手に読んでみましたが、その内容に強い衝撃を受けました。
真珠湾攻撃については今でも、日本の卑怯な「騙し撃ち」か「ルーズベルトの陰
謀」かを廻って論争が続いており、日米両国で多くの文献が出版されています。し
かしこれまでの論争では、いずれの立場においても明確に証明出来るものではなく
、推測の域を出ず決定的証拠に欠けるとされてきました。ところが本書は、これま
で未公開の資料や文書など具体的証拠を提示し真珠湾攻撃は米国が参戦するために
意図的に日本を挑発し、ルーズベルトと側近は日本の機動部隊の動きを全てを把握
していた、しかもそれは米国の国益に叶うものだったと結んでいます。これは今日
まで流布されてきた真珠湾攻撃についての定説を事実を以て完全に覆す内容になっ
ています。更に先の愛媛新聞にも書かれていましたが、真珠湾攻撃での諜報活動で
大きな役割を果たした愛媛出身の海軍少尉について、一章を設けその動静が詳しく
論述されています。
前号でも述べましたが、米国で真珠湾攻撃をテーマに映画『パールハーバー』が
製作され米国では五月、日本では七月に公開予定です。またこの『欺瞞の日』も今
年中には文藝春秋社より邦訳が出版されます。これを機会に真珠湾攻撃についての
論議が再燃してくるものと思われます。そこで本稿では今年の前半は本書に描かれ
た真珠湾攻撃の真実と、攻撃に関わった愛媛県人の姿をいくつか取り上げて紹介し
て参ります。
次回は、愛媛県人の姿を取り上げる前に、まず『欺瞞の日』の衝撃的な内容をかい
摘んで紹介致します。 ご意見やご感想をお気軽にお寄せ下さい。
日本の息吹(愛媛版)13年1月号より
【平成13年3月】
国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために 第二回
《「えひめ丸」事故海域に
真珠湾攻撃に散った英霊の姿を想う》
二月十一日「建国記念の日」の前日、ハワイ・オアフ島沖で県立宇和島水産高校の
実習船「えひめ丸」と米国の原子力潜水艦が衝突するという痛ましいニュースが飛び
込んできました。一刻も早い九名の行方不明者の発見と原因の解明を県民の一人とし
て願わずにはおれません。この事故は、国内外を問わず連日大きく報道されています。
本稿では殆ど知られていない真珠湾攻撃との関連について、特に事故海域との関連で
それに愛媛県が深く繋っていることがわかりましまたので、皆様にこの機会にご紹介
致します。
機動部隊による攻撃はよく知られていますが、真珠湾攻撃ではもう一つ特筆すべき
攻撃が行われました。それは僅か五十トン足らずの二人乗りの小型潜水艇五隻が母艦の
潜水艦から出撃、それも全く生還を期すことができない、所謂、特殊潜航艇による特
別攻撃隊といわれるものです。今から六十年前の昭和十六年十一月十八日、特殊潜航
艇を一隻ずつ積んだ五隻の母艦の潜水艦がハワイに向け広島県呉を出港しました。約
二十日間の航海の後、十二月六日にハワイ沖に到着し、真珠湾の入口から十五キロの沖
合でほぼ二列で散開します。そして七日の深夜にそれぞれの母艦から出撃して行きま
した。この攻撃で一名が捕虜となり九名が帰らぬ人となり、終戦までは、九軍神とし
て武勲を讚えられていました。入手できる資料で調べてみますと、事故海域は現在明
確な地点は特定されていませんが、マスコミ報道によるオアフ島ダイヤモンドヘッド
岬の沖約十八キロから二十キロ辺りが事実とすれば、特殊潜航艇の一隻が母艦から出撃し
た地点(伊十八号潜水艦から出撃した地点)に近い海域と推測されます。この伊十八
号潜水艦も昭和十八年二月十一日(紀元節)に、ガタルカナル島沖で米国 の駆逐艦に
撃沈されるという運命を辿っています。
この特殊潜航艇の訓練基地であったのが、宇和島市と同じ南予の西宇和郡瀬戸町の
三机湾だったのです。今は慰霊碑が建立されているだけで、年月の経過と共に最近で
は慰霊に訪れる人も少なくなっているようです。真珠湾攻撃ではもうひとつ、大きな
役割を果たした県人がいます。その方はハワイの米海軍の状況を日本に送るため外交
官に扮し派遣された重信町出身の吉川猛夫海軍少尉で、攻撃の直前まで情報を送り続
けました。その偵察に頻繁に利用したのが真珠湾を見下ろす日本料亭「春潮楼」で、
その女将も吉川少尉と同じ愛媛(松山)出身でした。(*吉川少尉について次号以降
で紹介します。)米国戦史には吉川少尉は真珠湾攻撃の中心人物の一人として大きく
登場しています。
今回の事故を機会に、歴史的な事実やそれを廻る動きを調べますと、人間の生命の
貴さと同時に、開戦六十年の今年に、しかも愛媛県と関わりある地域での事故に、戦
時平時を問わず死者の御霊を慰めること、そして正しい歴史を後世に着実に伝えて行
くことの大切さを改めて感じます。行方不明者に四名の高校生がいますが、六十年前
に同じ世代の若者が生還を期すことなき戦いで自らの生命を捧げた、その生命の重さ
を知って頂きたいと念願して本稿を記しました。牽強付会との批判を恐れず申せば、
今回の事故は、英霊の顕彰と大東亜戦争正史の確立という戦後日本が失った大切なこ
とを、歴史的事実を想起させることで、示唆したと言えるかもしれません。 ご意見
やご感想をお気軽にお寄せ下さい。
日本の息吹(愛媛版)13年3月号より
【平成13年4月】
国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために 第三回
《身近な郷土の慰霊碑にある日本の誇り
−元特殊潜航艇訓練基地・三机湾を訪れて》
前号で「えひめ丸」の事故海域が、真珠湾攻撃で特殊潜航艇の一隻が出撃した地点
に極めて近いことと、その訓練基地が西宇和郡瀬戸町の三机湾であったことを紹介し、
今回の事故を機会に、郷土の英霊や歴史の真実を知って頂きたいと記しましたところ、
多くの読者の方々からお電話やお手紙などを頂戴しました。拙い文章にも関わりませ
ず、思いもよらぬ反響大きさに大変驚いております。ご意見やご感想を頂きました方
々をはじめ会員の皆様に、心より御礼と感謝を申し上げます。
そこで実際に現地で英霊の事績を改めて学ぶために先日、時間の合間を縫って三机
湾にある慰霊碑と、縁の場所を訪れてみました。今回はそこで見聞したことを紹介し
ます。
三机湾は松山から車で長浜町を経由して約一時間半、佐田岬半島のほぼ中央部の伊
豫灘に面した小さな湾です。昭和十五年に特殊潜航艇の訓練基地として開設され、戦
争末期には特攻兵器・人間魚雷「回天」の訓練も行われていました。終戦とともに閉
鎖され、戦後二十年を経た昭和四十一年に元乗組員や遺族の悲願が実り、湾を眺める
須賀公園に「大東亜戦争九軍神慰霊碑」が建立されました。当時を偲ぶものは慰霊碑
以外に町の公民館の二階に特殊潜航艇などの写真が展示されてる他、乗組員の宿舎で
あった若宮旅館に貴重な資料が展示されています。町の人に伺いますと、毎年十二月
八日の開戦の日には、地元の青年団が中心となって慰霊祭が行われているそうです。
しかし、時の経過と共に、元乗組員や遺族の集まりである「特潜会」も高齢化で解散
されるなどの影響で、関心も薄れ今では訪れる人も殆どいません。現地で何人かの方
にお話を聞きましたが、当地でも詳しく知る方は少なく、若宮旅館を営む方が詳しい
話しをして下さいました。その中で心に響いた話がありました。
特殊潜航艇による攻撃で一人だけ意識を失って米軍の捕虜になり生還した方がいま
す。その方は酒巻和男さん(徳島県出身)で、大東亜戦 争の捕虜第一号といわれ、終
戦まで米国本土に収容されていました。戦後は軍人蔑視の蔓延、さらに捕虜が生還し
たことについても一部から批難を受けます。帰国後はブラジルで自動車関係の仕事を
され、その間も度々三机を訪れます。酒巻さんは体験を一冊の本にした以外は公の場
で心境を語ることは余りありませんでした。一昨年、人に知られることなくその生涯
を閉じました。最後に三机を訪れたのは、亡くなる直前だったそうです。英霊や遺族
を蔑ろにしてきた戦後の日本で、死の直前まで戦友の慰霊に尽くされる姿に心打たれ
ました。
酒巻さんは本来ならば、共に国のために戦った九名の事績を語り継ぐ唯一の人として
讚えられて然るべきでしょう。しかし軍人また捕虜故に戦後の日本はこうした人々に
心を寄せてきませんでした。しかも自らは戦友のことを心の底に秘めながら日本の再
建に尽くしてこられたのです。三机湾を久し振りに訪れてみて、こうした今の日本人
が見失ったことを改めて知らされた思いが致しました。
九軍神のみならず地域にある慰霊碑は、戦後封印された英霊やその周囲の人々など、
讚えられることなく国の礎となった名もなき人の姿を、私たちに伝えてくれる身近な
場所なのです。慰霊碑には国の誇りを賭けて戦った青年の歴史が深く刻まれているの
です。その意味で、正しい歴史を継承する場所でもあるのです。近くの慰霊碑の意義
を再認識したいものです。 ご意見やご感想をお寄せ下さい。
日本の息吹(愛媛版)13年4月号より
【平成13年6月】
国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために 第四回
《『ムルデカ』と『パールハーバー』》
−−−小泉総理の靖国神社参拝実現へ向け激励・要望の声を!
インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍兵士の姿を感動的に描いた映画『ムル
デカ』が五月十二日から公開され感動の輪が拡がっています。前号でも紹介したこ
ともあり、「ああした日本人がいたことを初めて知りました」「涙が止まりません
でした」などの、感想が本会にも寄せられました。私自身も戦後封印されたままの
こうした正しい歴史や勇敢な日本人青年の生き方を多くの人に伝えねばと、襟が正
される思いがしました。しかし一つだけ気になることがありました。それは映画の
内容ではなく『ムルデカ』の上映直前に、米国のディズニー社が巨費を投じて製作
した映画『パールハーバー』の宣伝フィルムが上映され、短い時間でしたが日の丸
を付けた日本の飛行機が逃げ惑う米国人を銃撃するシーンも映し出されました。
『パールハーバー』は、製作者の公式見解では、愛と友情を攻撃で引き裂かれた若
者の物語で、戦争の悲惨さを描いたものであって、特定の国を批難するものではな
いと述べています。しかし、せりふには「日本の卑劣な奇襲」との表現があり、製
作には米海軍が全面的に協力し、その上撮影にも米軍が南方で捕獲した本物のゼロ
戦−当時の日本人が搭乗し国のために命をかけて戦った兵器−を改良して使用する
など、公式見解とは裏腹に明らかに日本を悪玉に仕立てた内容となっています。
真珠湾攻撃については、今でも「騙し撃ち」かそうでないかを中心に議論が続いて
います。米国のマスコミはこの映画を大きく取り上げ十二月七日は汚辱の日であり、
卑劣な攻撃を受けないためにも国防は重要であるなどのコメントを載せています。
更に今でも米国内で一一三冊もの真珠湾攻撃についての文献が著されています。
真珠湾攻撃から六十年も経た今日でも、米国では映画や書籍などを様々な形で後世
に伝える努力をしています。これに対して日本では、歴史とりわけ戦争に関する史
実の究明や継承は殆ど為されていません。その結果、インドネシア独立に貢献した
日本人がいたことはおろか、真珠湾攻撃すら知らない若者たちが増えています。
事実、『ムルデカ』の公開を機会に、大東亜戦争で散った日本の青年たちの真実の
姿を語り継ぐことの意義を説いたマスコミは全くありませんでした。米国のみなら
ず戦争の勝敗に拘らず、世界のどの国でも戦争で散った人を讚え敬い、そして国民
に継承する努力は国の存立の基盤として行われています。『ムルデカ』と『パール
ハーバー』、それは正しい歴史を地道に伝える努力が為されながらも、依然として
歪曲された歴史観のなかで漂い彷徨う、真実の歴史というバックボーンを失った現
在の日本を現わし出しているように思えました。
それを象徴しているのが靖国神社参拝問題です。
小泉総理は、記者会見や国会での答弁で八月十五日には靖国神社を正式参拝する
ことを明言しています。ところが中学校の歴史教科書問題と同様に、中国などの外
国や国内の一部マスコミなどから参拝阻止へ向けての圧力も本格化すると思われま
す。そこで参拝への国民世論を醸成して行くために、左記まで小泉総理へ激励や要
望の声を届けて頂きますよう皆様にお願い致します。総理の参拝は国のために散っ
た英霊に感謝を捧げるだけでなく、戦中戦後の厳しい時代を悲しみを心に秘めなが
ら、戦後日本の復興に尽くしてきた遺族や旧軍人たちの悲願に応えることでもあり
ます。また同時に、国に殉じた青年たちの真実の歴史や真情を継承し、日本人の手
による日本の正しい歴史を確立する契機なのです。
何かとお忙しいこととは存じますが、どうかご協力頂きますようお願い申しあげ
ます。後に続く次代の日本を担う青少年たちのためにーー
日本の息吹(愛媛版)13年 6月号より
【平成13年8月】
国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために 第五回
《八月十五日−戦没者慰霊の日−には愛媛県護国神社に参拝を!》
終戦から五十六年目の八月十五日が間もなく訪れます。小泉総理の靖国神社参拝に
ついて議論が沸騰し、戦没者慰霊のあり方が問われています。
慰霊のあり方について考えさせられる話しを紹介します。
ハワイやサイパン島へ行った人から伺いました。ハワイには日本の真珠湾攻撃によ
って沈められた戦艦アリゾナが今は記念館となり、アメリカ人にとっては真珠湾攻撃
や攻撃で命を落した人を偲ぶ慰霊の場所となっています。最近訪れる日本人も多いの
ですが、最近日本の若い人のマナーが悪いと地元の人や日系人からあがっているそう
です。日本でも公開されている映画『パールハーバー』の影響もあり今年は特にアリ
ゾナ記念館を訪れるアメリカ人も多くなると予想されますが、こうしたマナーの悪い
一部の日本人の態度が、更に反日感情を高めることにならないかと憂えておられまし
た。
サイパン島では、昭和十九年六月から七月にかけ日米両軍が激しい死闘を繰り広げ玉
砕しました。戦いでは軍人のみならず多くの民間人も軍と運命をともにし、米軍の攻
撃に逃げ場を失い、多くの婦女子が身を投げた「バンザイ・クリフ」と呼ばれる所が
あります。周辺には慰霊碑も建立され遺族も多く訪れています。最近は観光地として
も有名になり、若い人も訪れていますが、慰霊碑に遺族の方が敬虔な祈りを捧げてい
るすぐ近くで、髪を染めた若い人が平気で騒ぎ、なかにはゴミを捨てる人さえいると
いうのです。本当に嘆かわしく悲しいと遺族の方は仰っていました。
この原因として、国のために戦い散った人の事績や歴史を正しく教えて来なかった
戦後教育にあることはいうまでもありません。世界のどの国でも、国のために戦った
人の歴史は国家存立の基盤をなすものとして、最優先に教えられています。オリンピ
ックでも国旗国歌に対する日本の若い人の態度が問題となりましたが、自国の国旗や
国歌に敬意を払うことができないで他国の国旗や国歌を尊重できないと同様に、自国
の戦没者の事績を知らず、追悼することをしないで、他国の戦没者を敬うことなど出
来ません。つまり戦後の日本が慰霊を蔑ろにし、正しい歴史や戦没者・遺族の真情を
伝えることを怠ってきたことの現れとして、こうした一部の若者の態度が生まれてき
ているのです。日露戦争時には日本海沿岸に流れて着いたロシア兵の遺体を地元の人
が丁重に埋葬したと伝えられています。嘗ては敵味方を問わず死者を祀り慰霊の誠を
捧げることは、日本人の美しい伝統として国民全体に脈々と生きていました。慰霊の
心を取り戻すとは、日本の美しい生き方を回復し継承して行くことでもあります。そ
れは知識や理論ではありません。戦没者・遺族の心そして今日の日本を築いた先人た
ちの姿に感動する心を育むことです。八月十五日に護国神社に参拝することはその出
発点です。拝殿で手をあわせ、また境内にある多くの慰霊碑を巡って下さい。是非ご
家族、親戚や知人等お誘い合わせてご参拝下さい。祖国のために散った英霊の声に謙
虚な気持ちで心を傾けてみましょう。
日本の息吹(愛媛版)13年8月号より
【平成13年9月】
国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために 第六回
《小泉総理の靖国神社参拝に寄せられた会員の声
−十月の例大祭参拝へ激励の声を!》
八月十三日、「本日小泉総理が靖国神社に参拝」との報道が流れ始めると、本会の
事務所にも会員の方々から電話が相次ぎ、翌十四日まで十数名の方から、「十五日に
参拝してほしかった」「やむ得ない決断であった」など様々なご意見やご感想が寄せ
られました。率直に申しまして全体としては約七割が十五日に参拝すべき、約三割が
十三日でも参拝しないよりはよい、というものでした。この中から、代表的な三名の
方のご意見を紹介します。(要旨)
「小泉さんならやってくれる(十五日に参拝)と、大いに期待していました。
残念でなりません。中国や韓国の内政干渉に屈するマスコミや一部の政治家には
憤りを感じます。総理官邸にも電話しました。」 (越智郡・男性)
「これだけの反発があったのだから仕方がないと思います。小泉総理も苦労された
と思います。でも、いずれは十五日に参拝して頂きたいものです。」 (今治市・女性)
「久し振りにこの問題で(総理の靖国神社参拝で)国民の世論が盛り上がったのに
残念です。結局、今の政治家には本当に日本のことを真剣に考える人がいないとい
うことが、今回のことでよくわかりました。」 (松山市・男性)
紙面の都合で全部ご紹介出来ないことは残念ですが、多くの方から貴重なお話を
伺いました。紙面を借りて茲に厚く御礼を申し上げます。誠に有り難うございまし
た。その他にも、ご遺族や旧軍人の方のなかには「戦争を戦い、また遺族として、
毎年毎年この問題でこうした騒動が繰り返されるのはやりきれない思いです。あと
何年生きられるかわかりません。生きている間にこの問題に決着をつけてほしい」
と、強く訴えられる方もいました。また、以前から熱心にこの問題に取り組まれて
いる方からは、「靖国問題を一つの時局問題として取り組むのではなく、戦略や戦
術を明確にして常日頃から継続的に活動をすることを望む」との、厳しいご提言も
頂きました。こうしたお話を聞いて、天皇陛下が国民が決して忘れてはならない日
として、沖縄戦終結の日と広島・長崎原爆投下の日と共に八月十五日の終戦の日を
挙げられ、昭和天皇と同様に戦没者や遺族へ多くの御製を詠まれていることが心に
浮かびました。
申すまでもなく、この問題は先の大戦の認識いわゆる歴史観の問題でもあり、多方
面からの取り組みが必要です。慰霊のあり方についても、新たな国立の戦没者慰霊
構想も主張されるなど靖国神社の形骸化へ向けた動きも見られます。
そこで今回の総理参拝へ寄せられた国民の声を結実化して行くために、十月の靖国
神社秋季例大祭と来年の春季例大祭への総理の参拝を促し激励して行く活動を行っ
て参りたいと思います。まず、あと約一ケ月となった秋季例大祭へ参拝するよう総
理への激励・要望活動に格段のご協力をお願い申し上げます。中学校の歴史教科書
問題や今回の靖国問題に見られるように、反対勢力は機会を捉えて日本の伝統や文
化を根底から破壊する様々な活動を行っています。私たちの、日本を心から愛する
人たちの真実の声を政府やマスコミに少しでも多く届けましょう。皆様のご意見を
お気軽にお寄せ下さい。
日本の息吹(愛媛版)13年9月号より
【平成13年12月】
国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために 第八回
《開戦から六十年−戦後世代に生きる戦没者の心》
今月、十二月八日は開戦から六十年目に当たります。当時二十才の方も今では八
十才で、年々戦争を経験した人が少なくなっています。今年は小泉総理の靖国神社
参拝を廻り戦没者追悼の在り方が問われ、改めて戦没者の心情や歴史の真実の継承
という課題が浮上した年でした。戦争体験者で慰霊に半生を賭けて来られた会員の
方のなかにも、病気や高齢で退会を余儀なくされる方もおられます。その一方で、
戦後生まれでも、日本会議の活動への参加を機会にこの課題に正面から取り組む人
も出てきています。その一人で吉海町の船員・渡辺伸吾さん(四六才)は先日、日本
会議への想いを綴った文章を送って来られましたのでご紹介します。(要旨)
「教科書、靖国神社参拝に揺れ続けた我が国は、先の米国中枢テロ事件に対する自
衛隊の派遣に混迷の度を深めている。自衛官は有事には死と直面する故に後顧の憂
いなきように法を整備すべきにも拘らず、これまでの自衛隊は現法の中で黙々と任
務を遂行し、高い士気と高度の技術は各国の賞賛の的である。政治、経済、軍事等、
戦後五十数年のツケが一挙に噴き出した感がある。近隣諸国に右顧左眄し唯々諾々
と謝罪外交を繰り広げ、憲法に正面から取り組むのを避けて来た政治の怠慢である。
戦後の軛 から一歩を踏み出すべく小泉総理の公約である八月十五日の靖国神社参拝
が実現するものと期待していたが、よもやの十三日参拝に虚脱感に襲われた。
日本会議の靖国、教科書などの諸問題をはじめ、厳しい状況下であたかも激流に漕
ぎ出す小舟の如く取り組む意気と姿に心から敬意を表し微力ながら活動に参加し応
援してきた。特に歴史の真実や英霊の真情を正しく伝えようと特に歴史の真実や英
霊の真情を正しく伝えようと広く提起し正面から取り組んでいることに高く評価す
る。祖国危急存亡の秋、率先して自ら戦いに赴き国の安寧を願い殉じた英霊に対し、
日本政府は応える努力をしてこなかった。アジア各地の戦場や沈没船で眠る遺骨収
集すら疎かにされてきた。彼ら英霊の犠牲の上で今日の日本は繁栄し平和を享受し
てきた。「戦後は遠くなりにけり」遺族の方も少なくなり、語り継ぐ人も少ない。
従って我々の使命は次の世代にその真情を継承することである。嘗て米英軍は精強
で最後の一兵まで死力を尽くす日本軍と戦ったことを誇りとし、激戦地で慰霊碑を
建立して讚えている。国を挙げて慰霊に取り組むのは当然の責務であり、決して蔑
ろにしてはならない問題である。
『日本の息吹』でも繰り返し述べられており、まさに『嵐の中の灯台』のごとく世
に光明をもたらすべく小さな灯が、燎原の火のように燃え広がることを期待してや
まない。」
渡辺さんとの出会いは平成九年の十二月八日、
毎年今治市でこの日に行われている旧海軍出身者の会合での、日本会議本部が製作
した英霊の真情を描いたドキュメント映画『天翔る青春』の上映でした。以来日本
会議の講演会などへの参加を通じ入会され、最近では、船員という不規則な仕事に
も拘らず、仕事の合間を縫って行事への呼び掛け、新しい会員のご紹介、更には書
籍やビデオも刊行される毎に多数を求められ多くの方に薦めておられます。今年も
新しい会員を数名ご紹介頂きました。
戦後世代でも、正しい歴史に共感を覚えれば必ず私共の活動に理解を示されます。
それを自分だけでなく日本のために人に伝えようとする姿、これが英霊が私たちに
命を賭して遺した心ではないかと思います。渡辺さんの文章には、戦没者の心が生
きずいている気が致します。最近では、二十代や三十代の青年も少しずつ入会され
る方も増えています。皆様も戦後生まれの青年たちに自信を持って『日本の息吹』
をお薦め下さい。
最後に、宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」事件について、愛媛県本部の副理
事長で森高康行愛媛県議会副議長が月刊『祖国と青年』という雑誌の十二月号に寄
稿されたことについて触れさせて頂きます。森高氏は今年の秋、遺体発見に際し県
幹部とともに地ハワイで九日間に亙り対応されたその体験から、マスコミでは殆ど
伝えられていない米軍や自衛隊の活躍の様子を中心に感動的なエピソードも交えて
紹介されています。その上、真珠湾攻撃で散った青年たちにも想いを馳せておられ、
大変感動的なご文章でした。森高氏も戦後世代です。戦争を体験していない世代が、
先人たちの生き方や想いを受け継ぎ、伝えようと活動しています。それはまだ小さ
な一歩かもしれませんが、そうした輪が少しずつ波紋のように広がることで日本本
来の姿が着実に甦り、後世へと承け継がれる、悲しい出来事の相次いだ今年、一人
そうした感を覚えました。
日本の息吹(愛媛版)13年12月号より
【平成14年 2月】
【地域で日本の心を守り伝えて行くために
会員の輪を身近な人々へ!】
川内町では、老人クラブが中心となり四十二年に亙り建国記念の日をお祝いする
行事が続けられています。高須賀さんによりますと、建国記念の日の法律が制定さ
れた昭和四十一年より前の昭和三十四年に、当時の川上村村長が住民に熱心に働き
かけ、「建国の昔を偲び永久の世界平和と我が国の弥栄を祈念する」ことを目的に
開催されてきたそうです。地域で国の礎を築いた先人の遺徳を偲ぶ慰霊祭などが継
承の危機に瀕しているといわれるなかで、毎年町長や議長も参加して実質的に町を
挙げて建国を奉祝する行事が行われていることは継承という観点から大変意義深い
ことです。
昨年十一月に本会会員で松山市の佐藤正義さんが、神風特攻隊第一号の関行男大
尉の慰霊碑がある西条市の楢本神社を、地元の生徒が知らない現実を指摘した投稿
が愛媛新聞に掲載されました。昨年、関大尉の慰霊祭に参列した『特攻へのレクイ
エム』の著者で三十代の女性ジャーナリストの工藤雪枝さんは、この現実を戦後の
「悲しい現実」と現されました。そこで佐藤さんは、今の教科書には愛媛県人では
子規すら出てこない、郷土の偉人を取り上げて歴史副読本として教育現場での活用
を提案されています。
日本会議は日本の歴史や伝統に基づく「誇りある国づくり」を提唱していますが、
その活動の出発点は私たちの住む地域です。例えば地域から慰霊継承が断絶すれば
慰霊の心が失われ、そこからは靖国神社への参拝を推進する英霊顕彰運動の気運は
生まれようがありません。地域で日本の伝統や先人の遺徳を称える行事を継承する
などの様々な活動を行うことは、地域に日本の歴史や伝統が着実に根付くことです。
また地域に住む次代の日本を担う青少年の心に、日本人としての誇りを育みます。
今回の川内町での高須賀さんの取り組みは、建国の理想や日本の心を広く地域住民
へ継承して行く大きな一歩のように思えます。大津寄氏の講演も、高須賀さんが日
本会議の会員になったことを契機に実現しました。先日ご逝去された奥長雅雄様は、
ここ数年毎年のように映画会を開催され、日本会議の書籍なども刊行される度に必
ず町の図書館に寄贈され、時には町長はじめ町の幹部にも贈呈する活動を地道に亡
くなる直前まで続けられました。
最近も夫婦別姓や不審船事件など国家的な対応の急務な課題が噴出しています。
地域での活動はこうした国家レベルでの大きな活動に較べると、一隅を照らす小さ
な灯かもしれません。しかし、日々の生活の営みのなかで、『日本の息吹』を起点
として人々との密接な交流が生まれ、それが少しずつ大きな輪となり、万灯となっ
て必ず日本を動かす大きな力となります。その意味で私たちの周囲に『日本の息吹』
の読者・会員を拡大することは、地域に日本の心を守り伝えて行く人の輪を確実に
広げて行くことに連なるのです。皆様のご協力をお願いいたします。
日本の息吹(愛媛版)14年 2月号より
【平成14年 3月】
【愛媛県本部事・奥長雅雄さんの逝去を悼んで】
−活動の事績と、他者へ尽くす生き方に学ぶ−
愛媛県本部理事で内山郷友会・軍恩連盟会長の奥長雅雄さんが逝去されました。
先の戦争に参加した経験を持つ奥長さんは戦後は、戦友をはじめ多くの戦没者の慰
霊に尽くされてきました。平成七年に日本会議に入会してからは、本会の発展に特
筆すべき業績を遺されました。そこでご逝去を心から追悼し、奥長さんのお人柄や
生き方と本会での活動の事績の一端を紹介して、「継承」という課題にを寄せ考え
てみたいと思います。
私事で恐縮ですが、私が初めてお目にかかったのは五年前の平成九年の愛媛玉串
料訴訟最高裁判決で「違憲」の判決が下り、直後から英霊顕彰運動の一環として、
その年に日本会議本部が製作した戦没者の真情を描いたドキュメント映画『天翔る
青春』の県下での上映推進活動に従事していた頃でした。奥長さんは早速趣旨に賛
同され、地元の郷友会での上映は勿論のこと、広く地域での上映活動に先頭に立っ
て推進されました。以来、毎年ご自身が主宰する会合にお招きを頂き、映画上映を
はじめ日本会議の資料配布などの地域での啓蒙活動を強力に推進する一方で、愛媛
県本部が開催する行事の殆ど全てに、時にはご自身の都合を調整して、更に地元の
内子や五十崎の郷友会・軍恩連盟の会員などに広く呼び掛けて参加する活動を継続
して続けられました。この間、多くの方を日本会議の会員へと誘い、ここ数年は日
本会議本部や明成社発行の書籍やビデオも、刊行される度に一括購入され知人に贈
呈されました。特に内子図書館へはこの二年間に亙り書籍を贈呈し地域に日本の心
や慰霊の心を根付かせ継承する活動に尽力されました。 昨年秋に体調を崩されま
したが、こうした活動は止むことはありませんでした。
入退院を繰り返しながらも、
昨年十一月には「工藤雪枝さんの『特攻へのレクイエム』を図書館に贈って欲しい」、
年末には「町長さんにも渡すから」と、皇室カレンダーを五本求められるなど、自
分のことよりも自分たちの周囲の人へ伝えたいとの迸る情熱は衰えるどころか、迫
力をもって伝わってきました。また年末の十二月二十三日に松山市で行った、敬宮
愛子内親王殿下のお誕生をお祝いするパレードには、体調を考慮して参加協力の依
頼を敢えて中止したところ、翌日その新聞報道を見て「なぜ声を掛けてくれなかっ
たのか、自分が行けなくても他の人に行くよう段取りをしたのに−−−、来年の建
国記念の日には元気になって行くから」と、声を振り絞るようにしてお叱りの言葉
を頂きました。
年が明け一月半ば、「建国記念の日に協賛金を送りたいから振込用紙を送って欲
しい。少ないけれどすぐ送るから」と申され、例年通り五千円の振込用紙をお送り
したところ、一万円もの協賛金を振り込んで来られました。それは死の六日前の一
月十九日のことでした。その時のお電話での「建国の日にみんなに会うの楽しみに
してるから」との言葉が私共への最後の言葉となりました。亡くなるまで体調のこ
とを含め、ご自分のことは一言も仰いませんでした。ただひたすら周囲の人々を思
いやり、気遣う優しい温かいお人柄と、決して弱音を一切語らず活動を強力に推進
したいとの情熱と気概に心から敬服の念を覚えました。
訃報を聞いて思わず、映画やビデオでしか見たことがありませんが、出撃直前の
特攻隊員の姿がよぎりました。彼らは悲しみを心に秘めながらも周囲を気遣い明る
い笑顔で出撃しました。多くの遺書にも家族や国の行く末を想う心情が切々と綴ら
れ、同時に国難に際し一身を賭し国を最後まで守り抜くとの気概と誇りが行間に込
められています。非礼を顧みず申せば、奥長さんの生き方は、まさに特攻隊員をは
じめ国のために散った多くの戦没者の想いそのものの生き方ではなかったのでしょ
うか。文字通り私心なき姿勢で活動に臨まれていました。
こうした姿は戦後日本の繁栄を陰で黙々と支えてきた人たちに共通する生き方で
もあります。戦後世代への継承という課題には、まずこうした人たちへの感謝の心
情を育むこと、即ち先人の体験や心情に常に心を寄せ続けて行くことが原点なので
はないかと、奥長さんの活動の姿を垣間見て思います。今年は、本会が結成されて
丁度二十年。今日まで活動を支えてきた多くの人たちの生き方に思いを致し謙虚な
心で学びつつ、先人たちが守り築いてきた美しい日本の姿を、正しく継承して行く
活動に自らを顧みず取り組んで行かねばならないと、改めて強く感じました。
日本の息吹(愛媛版)14年 3月号より