『日本の息吹』愛媛版

 『日本の息吹』愛媛版で取り上げた
    大東亜戦争を戦った勇士たちの姿

日本会議の月刊誌『日本の息吹』には、毎月県内の会員・読者用として、 『愛媛版』を挟み込んで、県内の活動の模様や、行事のご案内、各種情報をお届けしています。  このなかで、時折、大東亜戦争を戦った勇士たちの姿を取り上げ、戦後の日本の歴史 から消え去った国の為に死力を尽くして戦った青年たちの生き方や真情を伝えて参りました。  特に、愛媛県縁の神風特別攻撃隊、沖縄戦などに関係する地域の先人も紹介しています。 拙い文章ですが、ぜひお読み頂きまして、皆様の住む地域でも、こうした先人の事績を継 承する契機となれば幸いです。 ご意見やご感想がございましたら、お気軽にお寄せください。
 平成11年12月
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【平成11年12月】

 【十二月八日】大東亜戦争開戦の日を迎えて       白石哲朗

 十一月十二日に東京・皇居前広場の御即位十年奉祝国民祭典に参加した折、 昭和十六年十二月八日未明、大東亜戦争開戦の火ぶたを切った真珠湾攻撃で、 機動部隊の空母「飛龍」「蒼龍」を擁する第二航空戦隊司令官として指揮を 執り、翌十七年六月のミッドウェ−海戦で空母三隻を失いながらも「飛龍」 一隻で米機動部隊に果敢に攻撃を挑み、米空母・巡洋艦に甚大なる損害を与 え、最後は敗戦の責を負い自ら艦と運命を共に散華された、山口多聞海軍少 将ご子息の山口宗敏様にお会いしました。宗敏様は、山口少将の生誕地で靖 国神社近くに事務所を設け、毎朝靖国神社に参拝し、英霊の御事績や正しい 大東亜戦史、皇室を戴く日本の国柄を後世に継承してゆくための諸般の活動 に忙しい日々を過ごされ、日本会議の会員としても活動されています。
 山口少将や山本五十六大将等多くの将兵の写真・手紙・手記をはじめ大東 亜戦争に関する貴重な資料を拝見させて頂きました。さらに遺された奥様・ お子様のご苦労や、山口少将への想いをご自分の体験とともにお話下さり、 感動を覚えました。特に強調されたのは戦後の若い世代に英霊の真情を正し く伝えてゆくことの大切さでした。今年八月二十四日に開催された靖国神社 崇敬奉賛会主催のシンポジウムのパネラ−の一人で、戦後世代の日本青年協 議会・田中和子氏の「仕事がら英霊の故郷の方々を取材する機会に恵まれ、 次第に英霊が家族の一員のように感じられ、関心の薄かった靖国神社と、生 きるということの本当の意味が分かるようになった。」という旨の言葉が、 強く印象に残ったそうです。自分のお子様も田中氏と同じ歳で、戦後の東京 裁判史観で教育を受けた世代。周囲の戦後世代の若者と較べ、また旧軍人や 英霊を悪し様に批難する風潮が蔓延するなか、激動の戦後を生き抜いて来ら れたご遺族の一人として、 戦後世代の真摯な言葉に大変感動されていたよう でした。私自身も戦後生まれで、英霊の生き方や志に学ぶ者として、宗敏様 の言葉にかえって励まされる思いがしました。御即位十年を迎えられた天皇 陛下は、戦没者、遺族や旧軍人の心情を、掬い上げるように祈りを込められ てお言葉を発表され、御製に詠まれ続けて来られました。戦後五十数年、英 霊の生き方や真情に想いを致し、御霊を鎮める慰霊を続けてこられた天皇陛 下の御心が偲ばれ、宗敏様の言葉が心に響きました。「青年達が国難に殉じ ていかに戦ったかという歴史を記憶する限り日本と日本人は滅びない」と、 神風特攻隊を最初に見送った大西瀧治郎海軍中将は語ったそうですが、こう した意味の正しい歴史の継承が、本来あるべき慰霊に連なる道ではないかと 思います。最後に、山口少将の和歌と、真珠湾攻撃の直前に宗敏様へ 宛て た最後の手紙をご紹介致します。

江田島卒業に際し(明治四十五年)
 誠心を君と親につくしてぞ捨つる命のはえもありける 山口多聞少将「藻塩草」 宗敏へ お父さんはお國の為に喜び勇んで死にます。敏ちゃんも早く大きく なってお國の為になる立派な人におなりなさい。まだ小さいから分からない でしょうが、何でもよいか何か日本の為になる事をやりなさい。
      昭和十六年 九月           多 聞

               日本の息吹(愛媛版)11年12月号より

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【平成12年1月】

  終戦五十五年目を迎えて 1.

 今年は西暦二千年ということが強調され、年末年始にかけてのマスコミは二 千年問題、世紀末など二千年報道一色といってもいい くらいの過熱ぶりです。 しかし、今年平成十二年は日本人にとって大変重要な節目の年、先の大戦即ち 大東亜戦争終戦より五十五年目を迎えます。思い起こせば五年前の平成七年の 終戦五十年目には先の大戦について侵略戦争か自存自衛、アジア解放かといっ た様々な議論が巻き起こりましたが、この五年間を振り返りますと、戦後日本 に課せられた、散華された英霊を国家国民が如何に敬い祀るかという、英霊顕 彰問題は一向に前進の兆しさえ見せていません。それどころか、平成九年の愛 媛玉串料訴訟最高裁判決での違憲判決、いわゆる東京裁判でのA級裁判被告人 の分祀問題が昨年唐突に議論され始めるなど、英霊の真情や遺族の悲痛な叫び を公然と無視し、否定するような動きさえ出始めています。
 そこで、私共ではこの『愛媛版』に「戦後五十五年を迎えて」と題して、大 東亜戦争を戦い、散華した英霊たちの一般には余り知られていない感動的な体 験やエピソードを、毎月一つ取り上げて、皆様に紹介して参ります。 この問題はともすれば憲法に係わる法律論や、首相の靖国神社参拝等に関する 政治論に終始しています。その過程で国を守るために 如何に勇敢に戦ったか、 また遺族の声などは余り伝えられてはいません。英霊の遺書や遺族の体験に素 直に心を傾け共感し、感動する心を培うことなく、一方的に日本軍は悪いこと ばかりして来たと、自虐的な歴史ばかりを教えられ続けている今日では、英霊 への追悼・感謝の心情など育まれるはずもありません。
 今年は沖縄サミットが開催されます。沖縄は激しい戦いが行われ、天皇陛下 も国民が忘れてはならない日として沖縄戦終結の六月二十三日を挙げられてい ます。最近、沖縄戦が教科書でどのように教えられているかを、重信中学校の 大津寄章三先生から全ての中学校の歴史教科書をお借りし調べてみますと、ご く一部の行為のみを取り上げ、「日本軍が住民に強制自決を強要」「日本軍が スパイ容疑で県民を殺害」等の記述が全ての教科書に書かれています。国のた めに生命を賭けた軍人たちの姿や、遺書手記は扱われていません。大東亜戦争 すべてが、こうした記述で覆いつくされています。これでは英霊を敬う気運な ど起こりようがありません。愛媛の郷土部隊歩兵第二十二連隊の将兵も故郷に 帰ることなく多くが沖縄で玉砕しました。数少ない生存者で、元陸軍大尉・第 一大隊長の小城正氏は次のように述べています。

「切羽詰まった状況下で、一部の兵が沖縄の民間人に対して残虐な行為に出た ことを強調する余り、沖縄を守って最後まで勇戦敢闘し、死力を尽くして 戦った帝国陸海軍 兵を讚える声が聞かれないのが残念でならない。一部の煽動 者グループが感情に訴えて沖縄住民だけが犠牲者だという考えを人々の心 に植えつけている。私はもう結構だ、いい加減にしろといいたいのです。」(要約)
 私共ではこうした切実な声に真摯に耳を傾け、国を挙げての慰霊実現 への祈りを込めて、この企画をスタートします。貴重な体験・資料などあれば 事務局までお送り下さい。お借りした資料は責任を持って御返却いたします。      (白石哲郎)

                 日本の息吹(愛媛版)12年1月号より

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【平成12年2月】

 終戦五十五年目を迎えて 2. 
  〈関大尉を見送った故郷の人−海軍中佐・玉井浅一氏の戦後〉

 関行男大尉(西条市出身)は、神風特別攻撃隊の先陣を切った人として県内で もよく知られ、特攻隊に関する文献にも紹介されていますので、ご存知の方も おられると思います。ところが、昭和十九年十月二十五日、関大尉を現地の比 島マバラカット基地で、関大尉を隊長とする神風特攻隊敷島隊の編成に関わり、 関大尉の出撃を涙ながらに見送った人に、関中佐と同じ愛媛県出身の方がいた ことをご存知でしょうか。
 その方は、松山市西堀端出身の玉井浅一さんといいます。玉井さんは、松山 中学を卒業後、海軍兵学校に入り、大正十三年に五十二期生として卒業されま す。同期生には、元参議院議員で航空幕僚長も歴任した源田実氏、開戦に火ぶ たを切った真珠湾攻撃での攻撃隊長・淵田美津雄氏、それに昭和天皇の弟君の 故高松宮殿下など、大東亜戦争で海軍の作戦立案や前線の指揮等で活躍された 幹部を多く輩出しています。兵学校を卒業された後、戦艦「扶桑」の乗組員と して勤務され、その後は海軍航空へと移られ、終戦まで航空隊の幹部として、 またパイロットの教育養成と航空一筋で過ごされました。昭和十九年には南方 の島々で玉砕が相次ぐなど、戦局は次第に逼迫し、玉井さんは海軍中佐で関大尉 が所属していた比島の二○一航空隊副長として、激しい航空戦を戦っていまし た。そして十月二十 五日、関大尉出撃の日を迎えます。この時の模様につい ては紙面の都合で割愛しますが、祖国の為のやむにやまれぬ出撃とはいえ、同 じ故郷・愛媛出身の関大尉を見送る玉井さんの心境に想いを致すと胸が痛みます。
 玉井さんが復員して松山に帰ってきたのは、昭和二十年の十二月三十一日でし た。帰郷すると早速、小学校の用務員をしていた関大尉のお母様を訪ね、関大 尉出撃の様子などを詳しく説明して、上官として心からお詫びをして許しを乞 い、その後、度々西条市のお母様を訪れ慰めていたとのことです。多くの部下 を送り出した玉井さんは、戦後、漫然と余生を送ることは出来ませんでした。 仏門に入り身延山で修業を積み、郷里松山の瑞宝寺の住職となって、部下の御 霊を弔うことに余生を捧げられました。そして昭和三十九年十二月、国のため に最前線で戦い、慰霊一筋に生きた生涯を終えます。関大尉を見送ってちょう ど二十年目。玉井さんの御遺族は今も、毎年十月二十五日の関大尉以下五人の 敷島隊の慰霊祭には必ず出席され、御霊を慰めておられます。
 経済繁栄を謳歌する現代日本で、特攻隊員やましてそれを見送った人に、どれ だけの人が心を寄せて来たでしょうか。地位や名誉など一切の私心を捨てて、 誰にも知られることなく慰霊に尽くした人を、身近な郷土の誇りある歴史とし て蘇らせ語り伝えて行くことが、人々に慰霊の心を回復し、日本の心を取り戻 してゆく灯火、道 標のような気が致します。
この企画へのご意見などをお気軽にお寄せください   (白石)

              日本の息吹(愛媛版)12年2月号より

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【平成12年4月】

   終戦五十五年目を迎えて 4.
  〈慰霊なき日本の悲しい姿−皇后陛下の御歌を拝して〉

 二十九日は昭和天皇のお誕生日です。今上陛下は昭和天皇のご意志を承け継が れ、戦没者の慰霊に尽くされておられますが、沖縄戦と並んで、硫黄島の戦い にも御心を寄せておられます。平成六年二月に今上陛下は皇后陛下とともに、 昭和天皇の強いご希望であった硫黄島を、終戦五十年を前に慰霊のためご訪問 になりました。この折の御製や御歌は発表されていますのでご存じの方もある かと思いますが、次に掲げる皇后陛下の御歌は殆ど知られてなく、意味を深く 解説し御心をお偲びしたものもあまりありません。そこで今回は、この御歌に 込められた皇后陛下の慰霊のご姿勢と今の日本の姿を見つめてみます。

硫黄島(平成六年)
    銀ネムの木木茂りゐぬこの島に
      五十年眠るみ魂かなしき
 「み魂」とは硫黄島の戦いで散華した英霊のことです。今は銀ネムの木々が生 い茂っている硫黄島には、激戦から五十年を経た今日でも、多くの遺骨が未だ 眠ったままで何と悲しいことかという意味だと思います。皇后陛下が硫黄島に 放置された御霊に、お心の底からの悲しみが現れています。
 昭和十九年二月十九日、米軍は日本本土爆撃の最先端基地するために七万五千 人が上陸。迎え撃つ栗林忠道中将以下の日本軍守備隊は、本土空襲を遅らせ米 軍を長く引きつけるために、硫黄の臭気や五十度の地熱がたちこめる地下に壕 や坑道を掘り、「決死敢闘」を合言葉に戦い、米軍に甚大な被害を与えます。 わずか面積二十二平方キロ、周囲十二キロの小さい島を占領できたのは、一か 月以上もたった日本軍の組織的戦闘の最終日とされる三月二十六日でした。大 東亜戦争で米軍の死傷者日本軍を上回った唯一の戦場であり、米軍戦史は今日 でも栗林中将以下の勇敢な日本軍将兵を讚えています。
 昭和四十三年に日本に返還されると遺骨収集も始まりますが、日本軍死者約二 万名の遺骨の多くは未だ放置されています。慰霊に訪れた皇后陛下は「五十年 眠るみ魂かなしき」とお詠みになりました。そこに今は「銀ネム」が生い茂っ ています。銀ネムは熱帯地域で栽培され、生長が早く土壌の侵食防止によく植 えられるとのことです。しかも硫黄島では、米軍が戦後にその種を撒いたとさ れ、この根はヘビのように長くくねっているそうです。その根に日本軍兵士の 遺骨が絡みつくように五十年後の今も眠ったままなのです。
 同時に、これはまさに現在の日本の状況ではないかと思います。米軍により蒔 かれた銀ネムは、GHQにより作られ今日に至っている日本国憲法に思えてな りません。その下で欧米に追随し、極端なまでの自己中心的な風潮が蔓延する 一方で、政府も国民も散華した英霊を敬うことに見向きもしていません。国を 挙げての慰霊は 蔑 ろにされたままです。私は皇后陛下は硫黄島のみならず、 日本人が今の憲法下で慰霊を忘れてしまった現状を、お心の底から悲しまれて いるのではないのかと慄然と襟が正される思いが致しました。
 国会に憲法調査会が設置されましたが、ここでは両陛下の御心に思いを致しな がら国全体として御霊を敬い慰めるためにも、その背景にある大東亜戦争をは じめとする日本の正しい歴史を回復し継承する努力と、それに基づいた憲法論 議が行われることを強く望みます。     (白石哲朗)

              日本の息吹(愛媛版)12年4月号より

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【平成12年5月】

 終戦五十五年目を迎えて 5.
  〈語らざる悲しみ−元潜水艦長が語る『回天』遺族の心情〉

一身を捧げて祖国の危急を救うために若い青年の純粋な愛国心の内発的、自然 的発露として現れた特攻は、航空機ばかりではなく、様々な形の特攻が生まれ ました。その一つが、当時世界最高といわれた我が国の魚雷を人間が乗り込め るように改造して潜水艦から発射し敵艦を撃沈するのが、必死必中の特攻兵器 といわれる、いわゆる人間魚雷『回天』と呼ばれるものです。『回天』を搭載 して十二人もの隊員を送り出した元潜水艦長で海軍少佐の折田善次氏は、出撃 直前の隊員の姿とその遺族の心情を戦後次のように語っています。(要約)
 「回天の搭乗員たちは神様ですよ。一月前から何時死ぬかがわかっているのに、 毎日の起居動作など普段と全く変わらない。かえって私共の方が無駄死にをさ せまいと、日に日に食欲が減退して緊張しました。そして艦の乗員には、搭乗 員に対して彼等の決心を冒涜するような明日の話(旨い物を食べたい、女遊び の話など)はするなと厳命しました。でもいざ出撃する時には、そうした艦の 雰囲気を気遣って、『私どものために皆さんに非常に迷惑をかけました、すみ ませんでした。』と言って、最後には明るく『帝国海軍万歳』と艦の武運長久 を祈る言葉を残して出て征きました。戦後ご遺族の方にもお会いしましたが、 どのご遺族も非難がましいことは一言も言わず、息子が最後までお世話になり 面倒をみて頂いたお礼を言われるだけなんです。搭乗員も立派でしたが、ご遺 族も立派な方ばかりでした。」
 悲しみを内に秘め非難一つ語らず逆にお礼を言われる遺族、また出撃に際して 周囲を気遣う搭乗員。こうした自己の「語らざる悲しみ」を抱きながらも他人 を案じ、国の行く末を想う人たちの生き方は、戦後の自分の利益追求に狂奔す ることが自己の幸せと考える多くの日本人とは正反対です。故に現在では、正 しい戦史や戦争体験が現在に伝わらぬ不可視的な障壁が作られているのだと思 えてなりません。
 周囲を思いやる敬虔な回天搭乗員やその遺族に触れて今の日本を見つめたとき、 山本五十六海軍大将が作ったとされる次の短い詩が、ふと心に浮かんできまし た。

苦しいこともあるだろう
言いたいこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣きたいこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが、男の修業である。
 この詩は、戦後の厳しい時代を御霊を守りながら、悲しみをこらえて戦後の復 興に尽くした遺族の心模様を映し出しているかのようにも思われ、胸の痛みを 覚えました。この人達に、どれだけの国民が感謝し心情を斟 酌してきたでしょ うか。国や他人の幸福を願っ て生きた人々の想いや志を自分の生き方として受 け継ぐ日々の営みのなかで、今の日本に生まれた喜びも育まれてきます。即ち 先人が築き上げてきた人間本来の人生観に国民全体が共感し、生きる歩みを始 めたときに、初めて大東亜戦争で国の為に戦い散った御霊の本当の姿が明らか になり、国民の心からの感謝としての慰霊への道が切り拓かれるのではないで しょうか。    (白石哲朗)

               日本の息吹(愛媛版)12年5月号より

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【平成12年6月】

 終戦五十五年目を迎え 6.
  〈沖縄戦終結と歩兵第22連隊−『伊豫のことほぎ』刊行にあたって〉

 六月二十三日は沖縄戦終結より五十五年目に当たり、沖縄戦や特に天皇陛下の 沖縄に寄せ続けられる御心については、昨年の御即位十年奉祝運動のなかで日本 会議刊行物や、また本稿でも紹介致しました。本会でも郷土部隊である歩兵第二 十二連隊が沖縄で玉砕したこととの関連で、その駐屯地跡地(松山市営球場)で の奉祝大会開催でもあり、特にこの点を強調して皆様にお伝えして参りました。 こうした活動を通じて痛切に感じましたことは、郷土部隊が沖縄で勇敢に戦い、 玉砕した事実を知らず、単に過去の出来事として無関心な人々が意外に多いとい うことです。来月は沖縄サミットが開催され、最近この話題や沖縄に触れた報道 も多く見受けられますが、そのなかで沖縄戦については触れたものは全くありま せん。生き残った旧軍人や御遺族も高齢化とともに数少なくなりつつある今日、 このままでは祖国の為に、二度と郷土の土を踏むことなく散華された英霊の悲し くも勇敢な姿は、知る人も伝える人もないままに顕彰されることなく時の流れに 飲み込まれ、覆い隠されてしまうのではないかと暗然たる気持ちに襲われました。
 先月、愛媛の御即位十年奉祝運動の活動記録集『伊豫のことほぎ』が完成し、 そこには、二十二連隊の戦いを郷土の誇りある歴史として語り継いで行きたいと の心からの祈りを込めて、 天皇陛下の沖縄への御心と併せて二十二連隊将兵の 戦いをいくつか紹介してい ます。その中に、小 城正様(元陸軍大尉)という元 二十二連隊第一大隊長で沖縄戦当初より終結まで、更に終戦後の昭和二十年十一 月に米軍に収容されるまで戦い抜いた体験を紹介させて頂きました。小城様の 体験は早川書房より刊行されている『天王山−沖縄戦と原子爆弾−』J・ファイ ファー著、小城様訳から引用させて頂いたものです。上下刊で約一千ページの大 著ですが、二十二連隊をはじめ沖縄で戦った日本軍将兵の戦いが詳細に記述され ています。
 体験を引用させて頂いた御礼に、早川書房を通じて小城様に『伊豫のことほぎ』 を贈呈させて頂いたところ、先日、ご本人より本会事務局にお電話があり、二十 二連隊のことを派に書いて頂いてと、感謝を述べられ恐縮致しました。またその 他に、連隊時代はよく連隊歌を愛唱したことや、毎年六月二十日頃には靖国神社 に参拝し沖縄戦で散華された御霊を慰めておられること、年に一回は防衛庁から 招請されて沖縄戦の話をされていることなど、多くの貴重なお話を伺いました。 小城様は鹿児島県出身で陸軍士官学校を卒業されて、連隊の士官として配属され 戦後は自衛隊に入り、今は東京にお住まいです。最後に、連隊の故郷である松山 には一度も行ったことがない、戦後ずっとぜひ伺いたいと思っていましたと切々 と語られていたことが心に深く残ました。
 鹿児島出身で遠く離れた東京の方が、戦後五十五年間に亙り郷土愛媛の部隊に 想いを寄せ続けられているにも拘らず、地元愛媛では顕彰の兆しひとつ見えませ ん。脚下照顧という言葉がありますが、足下の郷土部隊の慰霊顕彰すらしないよ うでは国を挙げての慰霊など到底おぼつかない、そう思えてなりませんでした。
尚、小城様訳の『天王山』は沖縄サミットを機会に増刷されます。ご希望の方は、 お近くの書店を通して早川書房にお申し込みください。

               日本の息吹(愛媛版)12年6月号より

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【平成12年8月】

 終戦五十五年目を迎えて 7. 
  〈八月十五日−郷土戦士の遺徳を語り継ぐ〉

   まもなく終戦五十五年目の八月十五日を迎えます。この日は言うまでもなく先の大戦で亡くなった戦没者の御霊を慰め、感謝を捧げる日ですが、最近では人々の関心は次第に薄れ、戦後生まれの若い世代のなかには、この日がどういう日なのか全く知らない人も多くいます。五十五年という時の流れに埋もれていっているようにさえ見えます。  この背景には様々なことが考えられますが、先の大戦いわゆる「大東亜戦争」 について、現在でも侵略か自存自衛かといった議論が繰り返され、今日に至って も評価が分かれていること がその大きな理由の一つです。しかし、この議論に は前提となる戦いの真相や 、戦没者や遺された御遺族の真情を知ろうとする努 力が欠けています。例えば首相や閣僚の靖国神社参拝に関するマスコミ報道でも、 公的参拝か私的参拝かといったことだけを取り上げ、御遺族や旧軍人の方々の声 は殆ど伝えられることはありません。こうした視点を欠いたままでは、いつにな っても大東亜戦争の真相は明らかにすることも英霊を国民こぞって慰霊すること も出来ません。その意味で戦争の真実や英霊、御遺族の真情を正しく知り、後世 へ伝えてゆく努力は怠るべきではありません。特に私たちの住んでいる郷土の先 人たちが、大東亜戦争を如何に戦い、如何なる想いを私たちに遺して散華された のかを学ぶことは、県民全体の英霊を敬う心情を涵養してゆく上において、近道 でしかも着実な歩みなのです。
 そこで、今回は終戦を前にした硫黄島と沖縄での戦いについての本県にまつわ る話を紹介します。  硫黄島と沖縄での戦いは 共に本土防衛の御楯となった戦いで天皇陛下が特に深い御心を寄せられており御 製にも詠まれ、行幸もされています。また国民が決して忘れてはならない日とし て終戦の日、広島・長崎原爆投下の日とともに沖縄戦終結の日を挙げられていま す。紹介させて頂きますのは本県の御遺族と旧軍人の慰霊に尽くされている姿で す。
 皆様は四国八十八カ所の霊場の一つ、松山市の石手寺に硫黄島で散華された本県 出身者の御霊を慰める慰霊碑があるのをご存知でし ょうか。この碑は「硫黄島協 会愛媛県支部」が建立し、そのお世話を先頭にたってされているのが、伊予市在 住で支部長の高重忠士様です。高重様はお兄様が硫黄島の海軍航空戦隊司令部に 所属し戦死されました。その事を戦後、お兄様の戦友から聞き、以後本県出身者 の慰霊にお仕事の合間を縫って奔走されています。先日ご本人にお目にかかりお 話を伺いました。紙面の都合で紹介出来ないのが残念ですが、現役を引退された 今でも伊予市のシルバーセンターのお仕事や、高齢者や地域のお世話をしながら、 慰霊に尽くされています。
 米軍は硫黄島に続き沖縄へ上陸、激しい戦闘が終結したのは昭和二十年六月二 十三日。以来この日は沖縄慰霊の日とされています。今年の六月二十三日付け愛 媛新聞の「門」欄に「沖縄で散った若者忘れるな」と題した投稿が掲載されまし た。執筆されたのは本会の会員でもある松山市の佐藤正義様(八六才)です。ご 覧になった方もあると思いますが、沖縄慰霊の日にも関わらず、報道では沖縄戦 での戦士について一切触れたものはなく佐藤様の文章に深い感動を覚えました。 その中で今の青少年を沖縄で散った勇士と較べて、これが同じ日本人かと考えさ せられ、沖縄慰霊の日を迎え学校も社会も教育を再思再考すべきと述べられてい ます。佐藤様は陸軍士官学校卒業で終戦時は陸軍少佐で、自らも第一線で戦われ 沖縄戦も多くの戦友を亡くされました。この日は護国神社に参拝されていますが、 参拝者が少なく関心の薄れつつある状況を悲しんでおられました。前号でも書き ましたが、沖縄戦では郷土部隊の歩兵第二十二連隊も玉砕しました。その事実が 正しく継承されていない証左であるかのようです。佐藤様は八月十五日の「郷土 の誇りある歴史を語り継ぐ集い」での小城様の講演を大変喜ばれ、自ら手紙を書 いて陸軍士官学校卒業生や知人に案内を送られ参加を呼びかけておられます。
 皆様も沖縄への観光旅行や石手寺へ参拝した方もいらっしゃることと思います。 しかし、意識して郷土兵士が眠る戦跡や慰霊碑を訪れる人は、旧軍人や御遺族を 除いて余りないと聞いています。愛媛でも郷土史の研究は盛んに行われています が、大東亜戦争に関するものは殆ど見られません。二十二連隊に関する物でも、 昭和四十七年に愛媛新聞から出版された『二十二連隊始末記』などが図書館に所 蔵されているだけで、一般では手に入りません。小中学校など教育現場でもその 歴史や遺徳は教えられていません。松山ではようやく日露戦争で活躍した秋山兄 弟を顕彰する気運が盛り上がってきましたが、大東亜戦争を戦った先人について は、その兆しすらありせん。戦後、軍人を否定し批判する風潮が蔓延して戦争や 英霊の真情を語ることは腫れ物に触るようにタブー視してきました。このままで は御遺族や旧軍人の方々が高齢化し、体験を語り継ぐ人がいなくなってしまいま す。『二十二連隊始末記』の著者・客野澄博氏も戦争体験を継承しなければ「戦 争はなかったことになる」と語っています。数百万の人が祖国のために生命を捧 げた「あの戦争」をなかったことにしてよいのでしょうか。
 英霊は国のために亡くなった死者です。英霊を敬うとは国の為に尽くした死者 を敬うことです。上智大学教授の渡部昇一氏は「よく先祖の墓参りをする家の子 供は、だいたいよく育っている。」「そこに生命の流れを見るのだ」と述べてい ます。家を国に言い換えれば、国の為に死んだ人の墓参りをよくする国民は、そ こに日本の生命の流れ即ち先人たちが築き上げた歴史を見て立派に育つというこ とです。最近は家に神棚や仏壇もなく、墓参りもしない家庭の増加が家庭の崩壊、 様々な青少年問題の背景にあると主張する識者もいます。家や国の健全な発展に は、死者への敬愛と感謝の念を育んでゆくことの大切さを痛切に感じます。歌人 の岡野弘彦氏は現代ほど「同時代の死者に対してこれほど冷たい時代は日本の歴 史になかった」と指摘しています。
 十五日は「お盆」で家庭の先祖祀りにとっても大切な日です。こうして考えて ゆくと「八月十五日」は「日本人全体の命日」のように思えてなりません。国家 と家庭の死者へ、今生かされている私たちが心からの感謝を捧げる意味で、「国 民が決して忘れてはならない日」なのです。祖国と家族の安寧を願い逝った死者 に対して「冷たい時代」から「温かい時代」とするために、身近にある郷土の戦 陣に散った人の遺徳に光を当て、継承することが国や家庭を問わず死者を慰霊す る基本的姿勢ではないかと思います。十五日はご家庭のお墓と共に、お近くの慰 霊碑や護國神社にぜひご参拝下さい。
      ご意見やご感想をお気軽にお寄せ下さい。

               日本の息吹(愛媛版)12年8月号より

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【平成12年9月】

 終戦五十五年目を迎えて 8.
  〈慰霊碑に頭を垂れ涙した旧軍人−
     元歩兵第二十二連隊第一大隊長小城正氏を迎えて〉

 八月十五日に「郷土の誇りある歴史を語り継ぐ集い」が開催されました。講師と して元歩兵第二十二連隊第一大隊長として沖縄戦を戦い生き残られた小城正様が、 初めて二十二連隊の故郷である松山を訪れました。私事で恐縮ですが、今回の行事 でご来県されてから東京に帰られるまで、縁あって講師のお世話をさせて頂きまし た。短い間でしたが講演では話されなかった貴重なお話を伺い、沖縄で散華した郷 土の将兵の慰霊に尽くされる姿勢に心が洗われる思いが致しました。紙幅の関係で、 ごく一部ですが紹介させて頂きます。
 講演が決定して小城様は、当日は終戦の日でもあり、講演の前に護國神社と二十 二連隊の慰霊碑へぜひ参拝したいと仰いました。十五日の午前、空港へ到着して早 速、護國神社境内にある二十二連隊の慰霊碑にご案内しました。慰霊碑正面横にあ る連隊歌を、「満州駐屯当時から、沖縄でもよく歌ったものです」と、懐かしそう に語られ食い入るように見ておられました。それから慰霊碑建立に尽力された人の 名前お一人お一人を丁寧に御覧になって、慰霊碑に参拝されました。その姿を横で 拝見していて、心なしか目頭に涙を溜めた小城様の身体が小刻みに震えているよう に見えました。その後波爾宮司様の御配慮で護國神社拝殿で正式参拝をさせて頂き ました。 講演の時もそうでしたが、空港へ到着してから車の中でも、食事のとき も、沖縄戦の話をするときはハンカチを目頭に当て涙を流しながら語られました。 まるで今でも沖縄で戦っているのではと思われ、側にいる私も思わず貰い泣きする ことがしばしばでした。小城様が沖縄戦の話をされたのは防衛庁以外で一般の前で は初めてで、五十五年振りに体験や心情を公にされました。前日の十四日は殆ど徹 夜で講演の準備をされ十五日は早朝五時頃に自宅を出て、朝一番の飛行機で松山に 来られました。講演や合間で特に強調されたのは、県人の勇敢さと沖縄県民が軍に 協力して本当によく戦ったという感動的な事実でした。現在は軍が無理に沖縄県民 を戦争に巻き込んだと言われていますが、それは全く事実に反し住民が軍と協力し た体験を今回では語り切れないくらいですと仰っていました。
 翌十六日は小城様の士官学校一期上の知人で、沖縄戦で散った松山出身の第三大 隊長・田川慶介さん(当時二五才)のお墓りをしました(松山市柳井町・法龍寺)。そ のとき「やあ田川さんお久し振りです。やっと来ましたよ」と、とめどなく涙を流 しながらお墓を今生きている人に逢 っているかのように触れられていました。そ の様子を拝して英霊とは単なる過去の記憶ではなく、小城様のように体験した人に とっては、今もまた今後も、生ある限り永遠に生き続けているものであるとの感を 深くし、私自身震えが止まらぬほどの感動を覚えました。
 最近は郷土や地域の伝統や文化を愛し、誇りを持って継承して行くことの大切さ が強調されますが、愛国心と郷土愛は決して別物ではありません。故郷の家族や恋 人を想いながら、国に生命を捧げた人達の真情を受け止めて、国へ連なる生命の流 れを自覚したとき、郷土に生まれた誇りも育まれます。散華した二十二連隊将兵は 「後に続く」私たちを信じて、今も国と郷土の行く末をずっと見守っているのです。 皆様のご感想をお気軽にお寄せください。

               日本の息吹(愛媛版)12年9月号より

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【平成12年12月】

 終戦五十五年目を迎えて 11.
  『国難にじた青年たちの歴史を記憶するために』

 大東亜戦争終戦以来五十五年を経た今年、平成十二年も間もなく幕を閉じようと しています。『愛媛版』では、平成九年の愛媛玉串料訴訟最高裁判所の「違憲」判 決以来、一向に前進の見られない英霊追悼顕彰問題、また国家の危機に際し生命を 捧げた英霊の歴史を隠蔽し、ねじ曲げて伝える現在の風潮に対して、正しい本当の 英霊の姿を伝えたいと念願して会員の皆様に毎月テーマを決めて御紹介させて頂き ました。特にこの問題を身近に捉えて頂くために、殆ど知られていない感動的な体 験を取り上げて、史実や真情と共にその意義について考えるものとするために微力 ではありますが努めて参りました。その中でも、大東亜戦争における愛媛県人の姿、 それも神風特攻隊の魁といわれる関行男中佐などのように有名な方だけでなく、そ れ以外の今日では全く紹介されていない愛媛県人の貴重な体験に少しでも光を当て るように努力してきましたが、紙幅の関係や私自身の拙い文体等の理由で所期の目 的は必ずしも達成出来たとはとは申せません。
 それにも関わりませず、本稿に対しまして多くの方々から御激励や貴重な御助言 を数多く頂きました。特に愛媛県護國神社の波爾 荘宮司様や愛媛県遺族会の佐伯 正春会長様など戦中戦後を通して厳しい時代の変遷の中で慰霊一筋に尽くされてき た方々をはじめ、一筋に生きて来られた方から貴重な御意見や資料をお寄せ頂きま した。紙数上すべての方を御紹介出来ませんが、この場をお借りしまして心より厚 く御礼と感謝を申し上げます。
 さて、来年は大東亜戦争開戦から丁度六十年になりますが、米国では開戦六十年 を記念して真珠湾攻撃をテーマに、ウォルト・ディズニー社が数億円の巨費を投じ て『パールハーバー』という映画が製作され、日本でも来年夏に公開の予定です。 今年の春には、大東亜戦争時に南方で米軍が捕獲したゼロ戦を改良して、ハワイの オアフ島でロケが行われました。映画の詳細はわかりませんが、真珠湾攻撃につい ては今でも日本の「騙し打ち」という見方が一般的で、嘗て日本の英霊や旧軍人が 日本のために戦ったゼロ戦で、日本を批判する映画が公開されようとしています。 騙し打ちかどうか検証もしないで、こうした映画が国内や世界で喧伝されば、東京 裁判史観 が横行し現在の憲法で育っている青少年にとって、更に英霊の真情や国 のために戦った歴史を正しく継承することは難しくなります。 特攻隊の生みの親 といわれる大西瀧治郎海軍中将は「青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという 歴史を記憶する限り日本と日本人は滅びない」と語っています。国家と自己の人生 を重ねて生き散った若者たちの歴史を正しく継承することは、国家存立の根幹であ ることが行間から伝わってきます。そこで更に一年、本稿の延長として継承という 観点に起点を置き「国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために」と改題して、 拙い文章で恐縮ですが体験や史実を毎月ご紹介していきたいと思っています。本年 にもまして、ご意見やご感想、またご提言などを遠慮なくお寄せ下さい。皆様と共 により良いものを作りあげて参りたいと存じます。会員の皆様方にとり来年が良い 年であるよう心よりお祈り致します。

               日本の息吹(愛媛版)12年12月号より

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【平成13年1月】

 国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために  第一回
  《解き明かされる真珠湾攻撃の真相
      −米国で刊行された衝撃の書》

 新年明けましておめでとうございます。
前号でも申し上げましたが、昨年に続き『愛媛版』では一頁を設け、英霊顕彰問題 の解決の端緒として少しでもお役に立てればと思 い「国難に殉じた青年たちの歴史 を記憶するために」と題し、今では殆ど関心の払われていない、しかし日本人とし て語り継ぐべき大切な大東亜戦争の真実や英霊の真情に焦点を当てその一端を紹介 したいと考えています。繰り返しますが、この問題の基本的視点は正しい歴史の継 承にあります。今年は大東亜戦争開戦六十年目ですが開戦当時二十才の方も今は八 十才と齢 を重ねています。戦後この 間、戦争を戦った方々の正しい歴史は継承さ れるどころか、逆に隠蔽され虚偽や歪曲された歴史が伝えられています。家族や友 人を戦いで亡くし、その御霊を守りながら瓦礫の中から立ち上がり、戦後日本の繁 栄を築いた礎となった人達へ感謝を捧げる意味でも、真実や真情・体験を明らかに して継承することは急務と言えましょう。

 さて、大東亜戦争の真実を解明する上で一昨年に米国で刊行され日本でも話題と なっている本があります。それは大東亜戦争の緒戦である真珠湾攻撃について、元 米海軍兵士として日本軍と戦った体験を持つ、米国のジャーナリストのロバート・ スティネット氏が著した『欺瞞の日(原書名・Day Of Deceit)−FDRとパールハー バーの真実』(注・FDRトハ当時ノ米国ノ大統領、ルーズベルト大統領ノ略)です。本書は日本で は京都 大学の中西輝政教授が月刊誌『正論』の昨年十月号で大きく取り上げたの を機会に、先月発売の『諸君!』や『サピオ』紙上で特集記事として紹介されるな ど、我が国の研究者でも大きな関心を呼んでいます。また開戦五十九年目の先月、 十二月八日の愛媛新聞にも「地軸」で紹介されています。私も早速に原書を取り寄 せ辞書を片手に読んでみましたが、その内容に強い衝撃を受けました。
 真珠湾攻撃については今でも、日本の卑怯な「騙し撃ち」か「ルーズベルトの陰 謀」かを廻って論争が続いており、日米両国で多くの文献が出版されています。し かしこれまでの論争では、いずれの立場においても明確に証明出来るものではなく 、推測の域を出ず決定的証拠に欠けるとされてきました。ところが本書は、これま で未公開の資料や文書など具体的証拠を提示し真珠湾攻撃は米国が参戦するために 意図的に日本を挑発し、ルーズベルトと側近は日本の機動部隊の動きを全てを把握 していた、しかもそれは米国の国益に叶うものだったと結んでいます。これは今日 まで流布されてきた真珠湾攻撃についての定説を事実を以て完全に覆す内容になっ ています。更に先の愛媛新聞にも書かれていましたが、真珠湾攻撃での諜報活動で 大きな役割を果たした愛媛出身の海軍少尉について、一章を設けその動静が詳しく 論述されています。

 前号でも述べましたが、米国で真珠湾攻撃をテーマに映画『パールハーバー』が 製作され米国では五月、日本では七月に公開予定です。またこの『欺瞞の日』も今 年中には文藝春秋社より邦訳が出版されます。これを機会に真珠湾攻撃についての 論議が再燃してくるものと思われます。そこで本稿では今年の前半は本書に描かれ た真珠湾攻撃の真実と、攻撃に関わった愛媛県人の姿をいくつか取り上げて紹介し て参ります。
次回は、愛媛県人の姿を取り上げる前に、まず『欺瞞の日』の衝撃的な内容をかい 摘んで紹介致します。  ご意見やご感想をお気軽にお寄せ下さい。

               日本の息吹(愛媛版)13年1月号より

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【平成13年3月】

 国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために   第二回
  《「えひめ丸」事故海域に
      真珠湾攻撃に散った英霊の姿を想う》

 二月十一日「建国記念の日」の前日、ハワイ・オアフ島沖で県立宇和島水産高校の 実習船「えひめ丸」と米国の原子力潜水艦が衝突するという痛ましいニュースが飛び 込んできました。一刻も早い九名の行方不明者の発見と原因の解明を県民の一人とし て願わずにはおれません。この事故は、国内外を問わず連日大きく報道されています。 本稿では殆ど知られていない真珠湾攻撃との関連について、特に事故海域との関連で それに愛媛県が深く繋っていることがわかりましまたので、皆様にこの機会にご紹介 致します。

 機動部隊による攻撃はよく知られていますが、真珠湾攻撃ではもう一つ特筆すべき 攻撃が行われました。それは僅か五十トン足らずの二人乗りの小型潜水艇五隻が母艦の 潜水艦から出撃、それも全く生還を期すことができない、所謂、特殊潜航艇による特 別攻撃隊といわれるものです。今から六十年前の昭和十六年十一月十八日、特殊潜航 艇を一隻ずつ積んだ五隻の母艦の潜水艦がハワイに向け広島県呉を出港しました。約 二十日間の航海の後、十二月六日にハワイ沖に到着し、真珠湾の入口から十五キロの沖 合でほぼ二列で散開します。そして七日の深夜にそれぞれの母艦から出撃して行きま した。この攻撃で一名が捕虜となり九名が帰らぬ人となり、終戦までは、九軍神とし て武勲を讚えられていました。入手できる資料で調べてみますと、事故海域は現在明 確な地点は特定されていませんが、マスコミ報道によるオアフ島ダイヤモンドヘッド 岬の沖約十八キロから二十キロ辺りが事実とすれば、特殊潜航艇の一隻が母艦から出撃し た地点(伊十八号潜水艦から出撃した地点)に近い海域と推測されます。この伊十八 号潜水艦も昭和十八年二月十一日(紀元節)に、ガタルカナル島沖で米国 の駆逐艦に 撃沈されるという運命を辿っています。

 この特殊潜航艇の訓練基地であったのが、宇和島市と同じ南予の西宇和郡瀬戸町の 三机湾だったのです。今は慰霊碑が建立されているだけで、年月の経過と共に最近で は慰霊に訪れる人も少なくなっているようです。真珠湾攻撃ではもうひとつ、大きな 役割を果たした県人がいます。その方はハワイの米海軍の状況を日本に送るため外交 官に扮し派遣された重信町出身の吉川猛夫海軍少尉で、攻撃の直前まで情報を送り続 けました。その偵察に頻繁に利用したのが真珠湾を見下ろす日本料亭「春潮楼」で、 その女将も吉川少尉と同じ愛媛(松山)出身でした。(*吉川少尉について次号以降 で紹介します。)米国戦史には吉川少尉は真珠湾攻撃の中心人物の一人として大きく 登場しています。
 今回の事故を機会に、歴史的な事実やそれを廻る動きを調べますと、人間の生命の 貴さと同時に、開戦六十年の今年に、しかも愛媛県と関わりある地域での事故に、戦 時平時を問わず死者の御霊を慰めること、そして正しい歴史を後世に着実に伝えて行 くことの大切さを改めて感じます。行方不明者に四名の高校生がいますが、六十年前 に同じ世代の若者が生還を期すことなき戦いで自らの生命を捧げた、その生命の重さ を知って頂きたいと念願して本稿を記しました。牽強付会との批判を恐れず申せば、 今回の事故は、英霊の顕彰と大東亜戦争正史の確立という戦後日本が失った大切なこ とを、歴史的事実を想起させることで、示唆したと言えるかもしれません。 ご意見 やご感想をお気軽にお寄せ下さい。

             日本の息吹(愛媛版)13年3月号より

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【平成13年4月】

 国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために  第三回
  《身近な郷土の慰霊碑にある日本の誇り
      −元特殊潜航艇訓練基地・三机湾を訪れて》

 前号で「えひめ丸」の事故海域が、真珠湾攻撃で特殊潜航艇の一隻が出撃した地点 に極めて近いことと、その訓練基地が西宇和郡瀬戸町の三机湾であったことを紹介し、 今回の事故を機会に、郷土の英霊や歴史の真実を知って頂きたいと記しましたところ、 多くの読者の方々からお電話やお手紙などを頂戴しました。拙い文章にも関わりませ ず、思いもよらぬ反響大きさに大変驚いております。ご意見やご感想を頂きました方 々をはじめ会員の皆様に、心より御礼と感謝を申し上げます。
 そこで実際に現地で英霊の事績を改めて学ぶために先日、時間の合間を縫って三机 湾にある慰霊碑と、縁の場所を訪れてみました。今回はそこで見聞したことを紹介し ます。

 三机湾は松山から車で長浜町を経由して約一時間半、佐田岬半島のほぼ中央部の伊 豫灘に面した小さな湾です。昭和十五年に特殊潜航艇の訓練基地として開設され、戦 争末期には特攻兵器・人間魚雷「回天」の訓練も行われていました。終戦とともに閉 鎖され、戦後二十年を経た昭和四十一年に元乗組員や遺族の悲願が実り、湾を眺める 須賀公園に「大東亜戦争九軍神慰霊碑」が建立されました。当時を偲ぶものは慰霊碑 以外に町の公民館の二階に特殊潜航艇などの写真が展示されてる他、乗組員の宿舎で あった若宮旅館に貴重な資料が展示されています。町の人に伺いますと、毎年十二月 八日の開戦の日には、地元の青年団が中心となって慰霊祭が行われているそうです。 しかし、時の経過と共に、元乗組員や遺族の集まりである「特潜会」も高齢化で解散 されるなどの影響で、関心も薄れ今では訪れる人も殆どいません。現地で何人かの方 にお話を聞きましたが、当地でも詳しく知る方は少なく、若宮旅館を営む方が詳しい 話しをして下さいました。その中で心に響いた話がありました。

 特殊潜航艇による攻撃で一人だけ意識を失って米軍の捕虜になり生還した方がいま す。その方は酒巻和男さん(徳島県出身)で、大東亜戦 争の捕虜第一号といわれ、終 戦まで米国本土に収容されていました。戦後は軍人蔑視の蔓延、さらに捕虜が生還し たことについても一部から批難を受けます。帰国後はブラジルで自動車関係の仕事を され、その間も度々三机を訪れます。酒巻さんは体験を一冊の本にした以外は公の場 で心境を語ることは余りありませんでした。一昨年、人に知られることなくその生涯 を閉じました。最後に三机を訪れたのは、亡くなる直前だったそうです。英霊や遺族 を蔑ろにしてきた戦後の日本で、死の直前まで戦友の慰霊に尽くされる姿に心打たれ ました。
酒巻さんは本来ならば、共に国のために戦った九名の事績を語り継ぐ唯一の人として 讚えられて然るべきでしょう。しかし軍人また捕虜故に戦後の日本はこうした人々に 心を寄せてきませんでした。しかも自らは戦友のことを心の底に秘めながら日本の再 建に尽くしてこられたのです。三机湾を久し振りに訪れてみて、こうした今の日本人 が見失ったことを改めて知らされた思いが致しました。
九軍神のみならず地域にある慰霊碑は、戦後封印された英霊やその周囲の人々など、 讚えられることなく国の礎となった名もなき人の姿を、私たちに伝えてくれる身近な 場所なのです。慰霊碑には国の誇りを賭けて戦った青年の歴史が深く刻まれているの です。その意味で、正しい歴史を継承する場所でもあるのです。近くの慰霊碑の意義 を再認識したいものです。    ご意見やご感想をお寄せ下さい。      

               日本の息吹(愛媛版)13年4月号より

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【平成13年6月】

 国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために  第四回
  《『ムルデカ』と『パールハーバー』》
   −−−小泉総理の靖国神社参拝実現へ向け激励・要望の声を!

 インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍兵士の姿を感動的に描いた映画『ムル デカ』が五月十二日から公開され感動の輪が拡がっています。前号でも紹介したこ ともあり、「ああした日本人がいたことを初めて知りました」「涙が止まりません でした」などの、感想が本会にも寄せられました。私自身も戦後封印されたままの こうした正しい歴史や勇敢な日本人青年の生き方を多くの人に伝えねばと、襟が正 される思いがしました。しかし一つだけ気になることがありました。それは映画の 内容ではなく『ムルデカ』の上映直前に、米国のディズニー社が巨費を投じて製作 した映画『パールハーバー』の宣伝フィルムが上映され、短い時間でしたが日の丸 を付けた日本の飛行機が逃げ惑う米国人を銃撃するシーンも映し出されました。

 『パールハーバー』は、製作者の公式見解では、愛と友情を攻撃で引き裂かれた若 者の物語で、戦争の悲惨さを描いたものであって、特定の国を批難するものではな いと述べています。しかし、せりふには「日本の卑劣な奇襲」との表現があり、製 作には米海軍が全面的に協力し、その上撮影にも米軍が南方で捕獲した本物のゼロ 戦−当時の日本人が搭乗し国のために命をかけて戦った兵器−を改良して使用する など、公式見解とは裏腹に明らかに日本を悪玉に仕立てた内容となっています。 真珠湾攻撃については、今でも「騙し撃ち」かそうでないかを中心に議論が続いて います。米国のマスコミはこの映画を大きく取り上げ十二月七日は汚辱の日であり、 卑劣な攻撃を受けないためにも国防は重要であるなどのコメントを載せています。 更に今でも米国内で一一三冊もの真珠湾攻撃についての文献が著されています。 真珠湾攻撃から六十年も経た今日でも、米国では映画や書籍などを様々な形で後世 に伝える努力をしています。これに対して日本では、歴史とりわけ戦争に関する史 実の究明や継承は殆ど為されていません。その結果、インドネシア独立に貢献した 日本人がいたことはおろか、真珠湾攻撃すら知らない若者たちが増えています。 事実、『ムルデカ』の公開を機会に、大東亜戦争で散った日本の青年たちの真実の 姿を語り継ぐことの意義を説いたマスコミは全くありませんでした。米国のみなら ず戦争の勝敗に拘らず、世界のどの国でも戦争で散った人を讚え敬い、そして国民 に継承する努力は国の存立の基盤として行われています。『ムルデカ』と『パール ハーバー』、それは正しい歴史を地道に伝える努力が為されながらも、依然として 歪曲された歴史観のなかで漂い彷徨う、真実の歴史というバックボーンを失った現 在の日本を現わし出しているように思えました。
それを象徴しているのが靖国神社参拝問題です。

 小泉総理は、記者会見や国会での答弁で八月十五日には靖国神社を正式参拝する ことを明言しています。ところが中学校の歴史教科書問題と同様に、中国などの外 国や国内の一部マスコミなどから参拝阻止へ向けての圧力も本格化すると思われま す。そこで参拝への国民世論を醸成して行くために、左記まで小泉総理へ激励や要 望の声を届けて頂きますよう皆様にお願い致します。総理の参拝は国のために散っ た英霊に感謝を捧げるだけでなく、戦中戦後の厳しい時代を悲しみを心に秘めなが ら、戦後日本の復興に尽くしてきた遺族や旧軍人たちの悲願に応えることでもあり ます。また同時に、国に殉じた青年たちの真実の歴史や真情を継承し、日本人の手 による日本の正しい歴史を確立する契機なのです。
 何かとお忙しいこととは存じますが、どうかご協力頂きますようお願い申しあげ ます。後に続く次代の日本を担う青少年たちのためにーー

            日本の息吹(愛媛版)13年 6月号より

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【平成13年8月】

 国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために  第五回
  《八月十五日−戦没者慰霊の日−には愛媛県護国神社に参拝を!》

 終戦から五十六年目の八月十五日が間もなく訪れます。小泉総理の靖国神社参拝に ついて議論が沸騰し、戦没者慰霊のあり方が問われています。 慰霊のあり方について考えさせられる話しを紹介します。

 ハワイやサイパン島へ行った人から伺いました。ハワイには日本の真珠湾攻撃によ って沈められた戦艦アリゾナが今は記念館となり、アメリカ人にとっては真珠湾攻撃 や攻撃で命を落した人を偲ぶ慰霊の場所となっています。最近訪れる日本人も多いの ですが、最近日本の若い人のマナーが悪いと地元の人や日系人からあがっているそう です。日本でも公開されている映画『パールハーバー』の影響もあり今年は特にアリ ゾナ記念館を訪れるアメリカ人も多くなると予想されますが、こうしたマナーの悪い 一部の日本人の態度が、更に反日感情を高めることにならないかと憂えておられまし た。
サイパン島では、昭和十九年六月から七月にかけ日米両軍が激しい死闘を繰り広げ玉 砕しました。戦いでは軍人のみならず多くの民間人も軍と運命をともにし、米軍の攻 撃に逃げ場を失い、多くの婦女子が身を投げた「バンザイ・クリフ」と呼ばれる所が あります。周辺には慰霊碑も建立され遺族も多く訪れています。最近は観光地として も有名になり、若い人も訪れていますが、慰霊碑に遺族の方が敬虔な祈りを捧げてい るすぐ近くで、髪を染めた若い人が平気で騒ぎ、なかにはゴミを捨てる人さえいると いうのです。本当に嘆かわしく悲しいと遺族の方は仰っていました。

 この原因として、国のために戦い散った人の事績や歴史を正しく教えて来なかった 戦後教育にあることはいうまでもありません。世界のどの国でも、国のために戦った 人の歴史は国家存立の基盤をなすものとして、最優先に教えられています。オリンピ ックでも国旗国歌に対する日本の若い人の態度が問題となりましたが、自国の国旗や 国歌に敬意を払うことができないで他国の国旗や国歌を尊重できないと同様に、自国 の戦没者の事績を知らず、追悼することをしないで、他国の戦没者を敬うことなど出 来ません。つまり戦後の日本が慰霊を蔑ろにし、正しい歴史や戦没者・遺族の真情を 伝えることを怠ってきたことの現れとして、こうした一部の若者の態度が生まれてき ているのです。日露戦争時には日本海沿岸に流れて着いたロシア兵の遺体を地元の人 が丁重に埋葬したと伝えられています。嘗ては敵味方を問わず死者を祀り慰霊の誠を 捧げることは、日本人の美しい伝統として国民全体に脈々と生きていました。慰霊の 心を取り戻すとは、日本の美しい生き方を回復し継承して行くことでもあります。そ れは知識や理論ではありません。戦没者・遺族の心そして今日の日本を築いた先人た ちの姿に感動する心を育むことです。八月十五日に護国神社に参拝することはその出 発点です。拝殿で手をあわせ、また境内にある多くの慰霊碑を巡って下さい。是非ご 家族、親戚や知人等お誘い合わせてご参拝下さい。祖国のために散った英霊の声に謙 虚な気持ちで心を傾けてみましょう。

            日本の息吹(愛媛版)13年8月号より

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【平成13年9月】

国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために  第六回
 《小泉総理の靖国神社参拝に寄せられた会員の声
            −十月の例大祭参拝へ激励の声を!》

 八月十三日、「本日小泉総理が靖国神社に参拝」との報道が流れ始めると、本会の 事務所にも会員の方々から電話が相次ぎ、翌十四日まで十数名の方から、「十五日に 参拝してほしかった」「やむ得ない決断であった」など様々なご意見やご感想が寄せ られました。率直に申しまして全体としては約七割が十五日に参拝すべき、約三割が 十三日でも参拝しないよりはよい、というものでした。この中から、代表的な三名の 方のご意見を紹介します。(要旨)

 「小泉さんならやってくれる(十五日に参拝)と、大いに期待していました。 残念でなりません。中国や韓国の内政干渉に屈するマスコミや一部の政治家には 憤りを感じます。総理官邸にも電話しました。」  (越智郡・男性)

「これだけの反発があったのだから仕方がないと思います。小泉総理も苦労された と思います。でも、いずれは十五日に参拝して頂きたいものです。」   (今治市・女性)

「久し振りにこの問題で(総理の靖国神社参拝で)国民の世論が盛り上がったのに 残念です。結局、今の政治家には本当に日本のことを真剣に考える人がいないとい うことが、今回のことでよくわかりました。」     (松山市・男性)

 紙面の都合で全部ご紹介出来ないことは残念ですが、多くの方から貴重なお話を 伺いました。紙面を借りて茲に厚く御礼を申し上げます。誠に有り難うございまし た。その他にも、ご遺族や旧軍人の方のなかには「戦争を戦い、また遺族として、 毎年毎年この問題でこうした騒動が繰り返されるのはやりきれない思いです。あと 何年生きられるかわかりません。生きている間にこの問題に決着をつけてほしい」 と、強く訴えられる方もいました。また、以前から熱心にこの問題に取り組まれて いる方からは、「靖国問題を一つの時局問題として取り組むのではなく、戦略や戦 術を明確にして常日頃から継続的に活動をすることを望む」との、厳しいご提言も 頂きました。こうしたお話を聞いて、天皇陛下が国民が決して忘れてはならない日 として、沖縄戦終結の日と広島・長崎原爆投下の日と共に八月十五日の終戦の日を 挙げられ、昭和天皇と同様に戦没者や遺族へ多くの御製を詠まれていることが心に 浮かびました。

 申すまでもなく、この問題は先の大戦の認識いわゆる歴史観の問題でもあり、多方 面からの取り組みが必要です。慰霊のあり方についても、新たな国立の戦没者慰霊 構想も主張されるなど靖国神社の形骸化へ向けた動きも見られます。
 そこで今回の総理参拝へ寄せられた国民の声を結実化して行くために、十月の靖国 神社秋季例大祭と来年の春季例大祭への総理の参拝を促し激励して行く活動を行っ て参りたいと思います。まず、あと約一ケ月となった秋季例大祭へ参拝するよう総 理への激励・要望活動に格段のご協力をお願い申し上げます。中学校の歴史教科書 問題や今回の靖国問題に見られるように、反対勢力は機会を捉えて日本の伝統や文 化を根底から破壊する様々な活動を行っています。私たちの、日本を心から愛する 人たちの真実の声を政府やマスコミに少しでも多く届けましょう。皆様のご意見を お気軽にお寄せ下さい。

            日本の息吹(愛媛版)13年9月号より

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【平成13年12月】

 国難に殉じた青年たちの歴史を記憶するために   第八回
  《開戦から六十年−戦後世代に生きる戦没者の心》

 今月、十二月八日は開戦から六十年目に当たります。当時二十才の方も今では八 十才で、年々戦争を経験した人が少なくなっています。今年は小泉総理の靖国神社 参拝を廻り戦没者追悼の在り方が問われ、改めて戦没者の心情や歴史の真実の継承 という課題が浮上した年でした。戦争体験者で慰霊に半生を賭けて来られた会員の 方のなかにも、病気や高齢で退会を余儀なくされる方もおられます。その一方で、 戦後生まれでも、日本会議の活動への参加を機会にこの課題に正面から取り組む人 も出てきています。その一人で吉海町の船員・渡辺伸吾さん(四六才)は先日、日本 会議への想いを綴った文章を送って来られましたのでご紹介します。(要旨)

 「教科書、靖国神社参拝に揺れ続けた我が国は、先の米国中枢テロ事件に対する自 衛隊の派遣に混迷の度を深めている。自衛官は有事には死と直面する故に後顧の憂 いなきように法を整備すべきにも拘らず、これまでの自衛隊は現法の中で黙々と任 務を遂行し、高い士気と高度の技術は各国の賞賛の的である。政治、経済、軍事等、 戦後五十数年のツケが一挙に噴き出した感がある。近隣諸国に右顧左眄し唯々諾々 と謝罪外交を繰り広げ、憲法に正面から取り組むのを避けて来た政治の怠慢である。 戦後の軛 から一歩を踏み出すべく小泉総理の公約である八月十五日の靖国神社参拝 が実現するものと期待していたが、よもやの十三日参拝に虚脱感に襲われた。
 日本会議の靖国、教科書などの諸問題をはじめ、厳しい状況下であたかも激流に漕 ぎ出す小舟の如く取り組む意気と姿に心から敬意を表し微力ながら活動に参加し応 援してきた。特に歴史の真実や英霊の真情を正しく伝えようと特に歴史の真実や英 霊の真情を正しく伝えようと広く提起し正面から取り組んでいることに高く評価す る。祖国危急存亡の秋、率先して自ら戦いに赴き国の安寧を願い殉じた英霊に対し、 日本政府は応える努力をしてこなかった。アジア各地の戦場や沈没船で眠る遺骨収 集すら疎かにされてきた。彼ら英霊の犠牲の上で今日の日本は繁栄し平和を享受し てきた。「戦後は遠くなりにけり」遺族の方も少なくなり、語り継ぐ人も少ない。 従って我々の使命は次の世代にその真情を継承することである。嘗て米英軍は精強 で最後の一兵まで死力を尽くす日本軍と戦ったことを誇りとし、激戦地で慰霊碑を 建立して讚えている。国を挙げて慰霊に取り組むのは当然の責務であり、決して蔑 ろにしてはならない問題である。
 『日本の息吹』でも繰り返し述べられており、まさに『嵐の中の灯台』のごとく世 に光明をもたらすべく小さな灯が、燎原の火のように燃え広がることを期待してや まない。」
   渡辺さんとの出会いは平成九年の十二月八日、 毎年今治市でこの日に行われている旧海軍出身者の会合での、日本会議本部が製作 した英霊の真情を描いたドキュメント映画『天翔る青春』の上映でした。以来日本 会議の講演会などへの参加を通じ入会され、最近では、船員という不規則な仕事に も拘らず、仕事の合間を縫って行事への呼び掛け、新しい会員のご紹介、更には書 籍やビデオも刊行される毎に多数を求められ多くの方に薦めておられます。今年も 新しい会員を数名ご紹介頂きました。
 戦後世代でも、正しい歴史に共感を覚えれば必ず私共の活動に理解を示されます。 それを自分だけでなく日本のために人に伝えようとする姿、これが英霊が私たちに 命を賭して遺した心ではないかと思います。渡辺さんの文章には、戦没者の心が生 きずいている気が致します。最近では、二十代や三十代の青年も少しずつ入会され る方も増えています。皆様も戦後生まれの青年たちに自信を持って『日本の息吹』 をお薦め下さい。

 最後に、宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」事件について、愛媛県本部の副理 事長で森高康行愛媛県議会副議長が月刊『祖国と青年』という雑誌の十二月号に寄 稿されたことについて触れさせて頂きます。森高氏は今年の秋、遺体発見に際し県 幹部とともに地ハワイで九日間に亙り対応されたその体験から、マスコミでは殆ど 伝えられていない米軍や自衛隊の活躍の様子を中心に感動的なエピソードも交えて 紹介されています。その上、真珠湾攻撃で散った青年たちにも想いを馳せておられ、 大変感動的なご文章でした。森高氏も戦後世代です。戦争を体験していない世代が、 先人たちの生き方や想いを受け継ぎ、伝えようと活動しています。それはまだ小さ な一歩かもしれませんが、そうした輪が少しずつ波紋のように広がることで日本本 来の姿が着実に甦り、後世へと承け継がれる、悲しい出来事の相次いだ今年、一人 そうした感を覚えました。

            日本の息吹(愛媛版)13年12月号より

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【平成14年 2月】

 【地域で日本の心を守り伝えて行くために
           会員の輪を身近な人々へ!】

 川内町では、老人クラブが中心となり四十二年に亙り建国記念の日をお祝いする 行事が続けられています。高須賀さんによりますと、建国記念の日の法律が制定さ れた昭和四十一年より前の昭和三十四年に、当時の川上村村長が住民に熱心に働き かけ、「建国の昔を偲び永久の世界平和と我が国の弥栄を祈念する」ことを目的に 開催されてきたそうです。地域で国の礎を築いた先人の遺徳を偲ぶ慰霊祭などが継 承の危機に瀕しているといわれるなかで、毎年町長や議長も参加して実質的に町を 挙げて建国を奉祝する行事が行われていることは継承という観点から大変意義深い ことです。
 昨年十一月に本会会員で松山市の佐藤正義さんが、神風特攻隊第一号の関行男大 尉の慰霊碑がある西条市の楢本神社を、地元の生徒が知らない現実を指摘した投稿 が愛媛新聞に掲載されました。昨年、関大尉の慰霊祭に参列した『特攻へのレクイ エム』の著者で三十代の女性ジャーナリストの工藤雪枝さんは、この現実を戦後の 「悲しい現実」と現されました。そこで佐藤さんは、今の教科書には愛媛県人では 子規すら出てこない、郷土の偉人を取り上げて歴史副読本として教育現場での活用 を提案されています。

 日本会議は日本の歴史や伝統に基づく「誇りある国づくり」を提唱していますが、 その活動の出発点は私たちの住む地域です。例えば地域から慰霊継承が断絶すれば 慰霊の心が失われ、そこからは靖国神社への参拝を推進する英霊顕彰運動の気運は 生まれようがありません。地域で日本の伝統や先人の遺徳を称える行事を継承する などの様々な活動を行うことは、地域に日本の歴史や伝統が着実に根付くことです。 また地域に住む次代の日本を担う青少年の心に、日本人としての誇りを育みます。 今回の川内町での高須賀さんの取り組みは、建国の理想や日本の心を広く地域住民 へ継承して行く大きな一歩のように思えます。大津寄氏の講演も、高須賀さんが日 本会議の会員になったことを契機に実現しました。先日ご逝去された奥長雅雄様は、 ここ数年毎年のように映画会を開催され、日本会議の書籍なども刊行される度に必 ず町の図書館に寄贈され、時には町長はじめ町の幹部にも贈呈する活動を地道に亡 くなる直前まで続けられました。

 最近も夫婦別姓や不審船事件など国家的な対応の急務な課題が噴出しています。 地域での活動はこうした国家レベルでの大きな活動に較べると、一隅を照らす小さ な灯かもしれません。しかし、日々の生活の営みのなかで、『日本の息吹』を起点 として人々との密接な交流が生まれ、それが少しずつ大きな輪となり、万灯となっ て必ず日本を動かす大きな力となります。その意味で私たちの周囲に『日本の息吹』 の読者・会員を拡大することは、地域に日本の心を守り伝えて行く人の輪を確実に 広げて行くことに連なるのです。皆様のご協力をお願いいたします。

            日本の息吹(愛媛版)14年 2月号より

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【平成14年 3月】

 【愛媛県本部事・奥長雅雄さんの逝去を悼んで】
  −活動の事績と、他者へ尽くす生き方に学ぶ−

 愛媛県本部理事で内山郷友会・軍恩連盟会長の奥長雅雄さんが逝去されました。 先の戦争に参加した経験を持つ奥長さんは戦後は、戦友をはじめ多くの戦没者の慰 霊に尽くされてきました。平成七年に日本会議に入会してからは、本会の発展に特 筆すべき業績を遺されました。そこでご逝去を心から追悼し、奥長さんのお人柄や 生き方と本会での活動の事績の一端を紹介して、「継承」という課題にを寄せ考え てみたいと思います。

 私事で恐縮ですが、私が初めてお目にかかったのは五年前の平成九年の愛媛玉串 料訴訟最高裁判決で「違憲」の判決が下り、直後から英霊顕彰運動の一環として、 その年に日本会議本部が製作した戦没者の真情を描いたドキュメント映画『天翔る 青春』の県下での上映推進活動に従事していた頃でした。奥長さんは早速趣旨に賛 同され、地元の郷友会での上映は勿論のこと、広く地域での上映活動に先頭に立っ て推進されました。以来、毎年ご自身が主宰する会合にお招きを頂き、映画上映を はじめ日本会議の資料配布などの地域での啓蒙活動を強力に推進する一方で、愛媛 県本部が開催する行事の殆ど全てに、時にはご自身の都合を調整して、更に地元の 内子や五十崎の郷友会・軍恩連盟の会員などに広く呼び掛けて参加する活動を継続 して続けられました。この間、多くの方を日本会議の会員へと誘い、ここ数年は日 本会議本部や明成社発行の書籍やビデオも、刊行される度に一括購入され知人に贈 呈されました。特に内子図書館へはこの二年間に亙り書籍を贈呈し地域に日本の心 や慰霊の心を根付かせ継承する活動に尽力されました。 昨年秋に体調を崩されま したが、こうした活動は止むことはありませんでした。
 入退院を繰り返しながらも、 昨年十一月には「工藤雪枝さんの『特攻へのレクイエム』を図書館に贈って欲しい」、 年末には「町長さんにも渡すから」と、皇室カレンダーを五本求められるなど、自 分のことよりも自分たちの周囲の人へ伝えたいとの迸る情熱は衰えるどころか、迫 力をもって伝わってきました。また年末の十二月二十三日に松山市で行った、敬宮 愛子内親王殿下のお誕生をお祝いするパレードには、体調を考慮して参加協力の依 頼を敢えて中止したところ、翌日その新聞報道を見て「なぜ声を掛けてくれなかっ たのか、自分が行けなくても他の人に行くよう段取りをしたのに−−−、来年の建 国記念の日には元気になって行くから」と、声を振り絞るようにしてお叱りの言葉 を頂きました。

 年が明け一月半ば、「建国記念の日に協賛金を送りたいから振込用紙を送って欲 しい。少ないけれどすぐ送るから」と申され、例年通り五千円の振込用紙をお送り したところ、一万円もの協賛金を振り込んで来られました。それは死の六日前の一 月十九日のことでした。その時のお電話での「建国の日にみんなに会うの楽しみに してるから」との言葉が私共への最後の言葉となりました。亡くなるまで体調のこ とを含め、ご自分のことは一言も仰いませんでした。ただひたすら周囲の人々を思 いやり、気遣う優しい温かいお人柄と、決して弱音を一切語らず活動を強力に推進 したいとの情熱と気概に心から敬服の念を覚えました。
 訃報を聞いて思わず、映画やビデオでしか見たことがありませんが、出撃直前の 特攻隊員の姿がよぎりました。彼らは悲しみを心に秘めながらも周囲を気遣い明る い笑顔で出撃しました。多くの遺書にも家族や国の行く末を想う心情が切々と綴ら れ、同時に国難に際し一身を賭し国を最後まで守り抜くとの気概と誇りが行間に込 められています。非礼を顧みず申せば、奥長さんの生き方は、まさに特攻隊員をは じめ国のために散った多くの戦没者の想いそのものの生き方ではなかったのでしょ うか。文字通り私心なき姿勢で活動に臨まれていました。

 こうした姿は戦後日本の繁栄を陰で黙々と支えてきた人たちに共通する生き方で もあります。戦後世代への継承という課題には、まずこうした人たちへの感謝の心 情を育むこと、即ち先人の体験や心情に常に心を寄せ続けて行くことが原点なので はないかと、奥長さんの活動の姿を垣間見て思います。今年は、本会が結成されて 丁度二十年。今日まで活動を支えてきた多くの人たちの生き方に思いを致し謙虚な 心で学びつつ、先人たちが守り築いてきた美しい日本の姿を、正しく継承して行く 活動に自らを顧みず取り組んで行かねばならないと、改めて強く感じました。

            日本の息吹(愛媛版)14年 3月号より

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H14. 9.19